満足感 - なぜ私達は満足しないのか?
なぜ、私は満足しないのですか?
なぜ私達は満足しないのでしょう?
そうですね、でも満足しないことは良いことです。
なぜなら私達はそのような方法ですべての進展の裏にある動機の力を感じるからです。
身体的及び 精神的なものが隠されている自然の「原因として働く段階」においてです。
私達が「動き」として見なすこと、
つまり私達が世界のどこか他の場所に移動することから、
内面の微妙な感覚の変化にいたるまでが、なぜ起きるかというと、
この力が私達の居心地を悪く感じさせ、
その状態で願望を満たすことを不可能にし、
私達はより大きい満足感に対する欲求を抱き始め、
それが新しい状況下に必ずあると計算するからです。
私達はちょうどそこまで「動く」だけで、それ以上動くことはありません。
もしもこの計算が成立しないなら、人は指の一本すらも動かさないし、鼻をかくことさえもしません。
それは、どのようにして最大限の喜びを最小限の努力で獲得するのかというエゴの E=mc2のようなものです。
この計算は何処にでもあります。
物事がそのような形で提示されないかぎり、 私達が絶対に選択しないこともそれです。
私達はいつでも自分たちの考える苦しみか喜びのどちらかを選択し、
いつでも喜びを選びます。
それは、すぐに手に入るものか、少々の苦しみを伴っても見込みのあるより大きな喜びのどちらかです。
しかし、喜びはそれ自体では存在していません。
それを感じる前に何かそれと反対のものが自然の中になくてはいけません。
私達はなにも「本質」としては体験しないのです。
私達はただ比較することによって体験します。
光は闇とくらべて、暖かさは冷たさと比べて、
喜びは苦痛とくらべて感じるのです。
もし比べるものがなければ、単に感覚もありません。
実は喜びとは、欲求とそれを満たすものが合致する箇所であり、
欲求が大きいほど、その喜びの体験も大きいのです。
ではなぜ喜びはいつも消えてしまうのでしょうか?
お腹がすこし減った時、どうなるかわかりますよね。
まずなにが食べられるか考えます。
「プレッツェルにしようかな… まだいいかっ」
でも空腹感はどんどん大きくなります。
「ホットドック二個にしようかな… いや、ピザまるごと一枚にしよう…」
「いやわかったぞ、ステーキだ!でっかいサーロインにしよう!」
<菜食主義のひとは代わりに豆腐ハンバーグを想像してください>
ベークトポテトと想像できる付け合わせと一緒に。
そして料理がやっと来た時、
あなたは、住所がつくぐらいの大きなステーキが食べれる気がします。
その最初の一口は快感その物です。
二口目は、すばらしい。
その次は、おいしい。
その次は、まあまあ。
その次は、そのときに感じたこと。
その次は、「もう一口もいらない、これ以上食べたら、気持ち悪くなる!」
欲求が小さくなったのです。
欲求はもうステーキに対してなくなりました。
そして喜びはもう感じることができなくなります。
なぜなら欲求が消えたからです。
これらがすべて起きる理由は、
私達が自分達だけを満足させようとしている利己的な欲望が
最終的に人間の経験を制限し、肉体的なものにしているからです。
なぜなら私達自身の欲求は小さくて、絶対に満足できないようにできているからです。
それにもかかわらず、私達は永続的な喜びを切望し、 それがどういうわけか必ずあると感じています。
そしてそれはあります。
しかしそれを感じるためにはまず、 際限のない満足感を引き寄せることのできる
際限のないいつまでも膨張する欲求が必要です。
それをするためには、私達は他者を満たすことに喜びを見いださなくてはなりません。
この「与える」という願望は、スピリチュアルな願望であり、
そのひとつの“味わい”は全生命が今までに感じた喜びをすべて合計したものよりも大きいのです。
なぜならそれは自分の小さな主観的な欲求のなかではなく、
万物のなかで感じられる喜びであるからです。
この願望には際限がなく、その欲求から得る喜びが尽きることはありません。
Last Updated (Friday, 18 June 2010 21:47)