社会の目的 第二部
人間が「自己愛」と呼ばれるクリ(器)から造られているため、人は行為が自己の利益をもたらすことを見ないところにおいて、小さな動作すら行う動機が全くありません。そして、自己愛を破棄することなく、クリエーターとのディヴィクット(密着・付着・接着)、つまり形態の同等性を達成することは不可能です。
そして、それが私たちの性質に反するため、「邪悪」と呼ばれる受け取ろうとする意志が、人間の創造された目的の達成を妨げることから、それを破棄することにおいて私たちが一緒に努められるよう、大きな力を作る社会が必要です。
この理由から、社会はそれを達成しなくてはならないということを満場一致で賛成する人々で構成されていなくてはなりません。それなら、全員が他の全員に統合しているので、すべての人が、それ自身に対して戦うことのできる一つの大きな力になります。したがって、各自はその目標を達成したいという大きな願望を基盤とします。
お互いに統合するには、各自が他者の前で自分自身を無にしなくてはなりません。これは各自が友人たちの短所ではなく、長所を見ることによってなされます。しかし、自分が友人たちよりも少し上であると考える人は、もはや彼らと統一できません。
また、その意図を失わないために集会の間、真剣であり続けることが重要です。この目標のために彼らが集まったからです。そして、へりくだって歩むことは、偉大なことであり、そのために人は、あたかも真剣ではないように演じることに慣れているべきです。しかし実際は、彼らの心の中で火が燃えています。
それでも、小さな人々に対しては、集会の間、集会の目標をもたらさない言葉と行為に従うことに対して警戒すべきです―こうして彼らはクリエーターとのディヴィクットを達成します。またディヴィクットに関しては、エッセイ『マタン・トーラー』(トーラーの授与)を見てください。
しかし、友人たちと一緒にいない時は、心の中の意図(思惑・狙い)を全く示すことなく、他の皆のように見えることが最善です。これが「汝の神である主とともにへりくだって歩む」ということの意味です。これについてのより高度な解釈もありますが、その簡単な説明も偉大なものです。
したがって、人が他者の前で無になれるよう、一体化する友人たちの間に平等があることは良いことです。そして、社会の中には、彼らの間に軽薄さを許さない注意深い監視があるべきです。なぜなら軽薄さはすべてを台無しにするからです。しかし、上で私たちが述べたように、これは内面的な事柄でなくてはなりません。
しかし、この社会から[の人]ではない誰かが居る間は、真剣さをまったく見せるべきではなく、入ってきたばかりの人と等しくなるべきです。言い換えると、真剣な事柄について話しをするのを避け、「招かれざる客」と呼ばれる、入ってきたばかりの人に適していることだけについて話しなさいということです。
Last Updated (Friday, 23 June 2017 09:30)