人は常に家の梁を売るべきである
人は常に家の梁を売るべきである
記事 第3番, 1984年
「ラビ・イェフダは言った、『ラヴは言った、『人は常に家の梁を売り、足に靴を履くべきだ』』」(安息日, 129)。我々は家の梁の正確さと、靴のそのとてつもない重大さを理解すべきである。そのために、つまり足に靴を履く能力を有するために、自分の家の梁を売る価値があるという程度にまで。
我々はそれを仕事に於いて解釈すべきである。家のコロット[梁]はミクレー[出来事/事件]という言葉に由来する。つまり人が彼の家で経験する全てである。我々は(知識と感情、つまり知性と心の中で感じるものによる)二つの識別によって、すなわち我々が幸せか不幸せかによって人を知覚する。
我々が経験するこれらの出来事は日常生活で問いを生じさせる。これは人とクリエーターの間、そして人と友達の間にあてはまる。
人とクリエーターの間とは、クリエーターが彼の全ての必要性を満たしていないという文句が彼にあることを意味する。言い換えると、善なる者の行為とは善を行うことである、という規則のため、クリエーターは彼が必要と考えるものを満たすべきであるということ。そして、時々彼はその正反対に感じているように文句を言う。つまり彼の状況が、彼より高い段階にいる他者よりも常に悪いと。
要するに、彼は「スパイたち」と呼ばれる状態にあり、神の摂理を誹謗中傷している。なぜなら彼は人生において喜びや楽しみというものを感じておらず、「私の人生の全ての日に於いて、唯一良い事や恩恵だけが続くだろう」などと言うことは難しいからである。したがって、そのとき彼は「スパイたち」の状態にある。
我々の賢者たちはそれについて「人は善に感謝するように悪に感謝しなければならない」と言った(Berachot [Blessings], 54)。ジュダイズムの基本は、理性を越えた信仰の上に築かれているからである。これは、知性が人に考えさせ、話させ、行わせるものに頼ることなく、善意である、より高い神の摂理への信仰に頼ることを意味している。そして、正確に神の摂理を正当化することにより、人は後に喜びや楽しみを感じるという褒美が与えられる。
主が自分の全ての願いを叶えていないとする、クリエーターに対する不満と要求を持つ人に関して、バール・ハスラムはひとつの寓話を与えた。それは小さな子供を連れて通りを歩いている人のようである。その子供はひどく泣いている。通りにいる全ての人々は父親を見ながらこう考える。「自分の息子が泣いているのが聞こえるのに、全く注意を払わないこの男はなんて残酷なのか? その子供の泣き声によって、通りの人々ですら、その子供をかわいそうに思うが、彼の父親であるその男はかわいそうとは思わない。そして『父親は自分の子供に同情するがゆえに』という規則がある。」
子供の泣き声は父親のところに人々を行かせ「あなたの情けはどこにあるのか?」と尋ねさせる。彼の父親は「私が世話をする、目の中に入れても痛くないくらいかわいい私の息子が、もしも目がかゆいからといって、私に針(ピン)をくれと求めたら、私に何ができるというのか? 彼の望みを叶えないからって、私を『残酷』と呼ぶことができるのか? それとも目を突いて永遠に盲目にならないように、彼にそれをあげないことは、情けではないのか?」と答えた。
従って、クリエーターが我々に与える全てのものが我々のためであると信じなければならない。だが我々は念のために、クリエーターがこれらの困難を取り除くよう祈らなければならない。しかしながら我々は、祈りとその祈りが叶うことが二つの別個の問題であると知らなければならない。言い換えれば、上記の寓話のように、もし我々がしなければならないことをするならば、クリエーターが我々のために良いことをするということ。それについてはこう言われている。「そして主は彼[主]にとって良いと思うことをするであろう。」
同じ原理が人とその人の友に適用される、つまり彼は彼の家の梁を売り、足に靴を履くべきであるということ。言い換えれば、人は自分の家の梁を、つまり自分の家が友達への愛に関して経験した全ての出来事を、売るべきであるということ。
人は、自分の友に疑問や苦情を持つかもしれない。なぜなら、彼は友達への愛において献身的に働いているのに、その友達の方には、彼を助けようというどのような形の反応も、全く見えないからである。彼らは皆、友達への愛がどのようにあるべきか、つまり立派な人々の間にあるように、きちんとした態度をもって自分の友達と話す、ということに対する自分の理解に従って行動していない。
また、行為について、彼は友達への愛に関して見ることのできる友達側の行為を1つも目にしない。それどころか全てが普通であり、一緒になること、そして各自が他者の幸せを気にかけている、そういった友達への愛が存在する社会を築くと決意することに、まだ興味を持っていない平凡な人達の間にいるかのようである。
それ故、今や彼は、友達への愛に従事している者が一人も見えないと感じる。そして彼は自分が正しい道を歩いている唯一の者であると感じ、全ての人を小ばかにし軽蔑して見る。このことを「スパイたち」と呼ぶ。すなわち、彼は友達が自分に対し「汝の友を愛せよ」に関して適切に振る舞っているのかどうかスパイしているということ。そして彼は、他者への愛が最も重要であるという友達の説教が一日中常に耳に入るので、彼らの言うことと行うことが同じであるかどうか、それを見たいと思う。
そしてその後で、彼はそれが全て口先だけであることを見る。彼は話すときですら他者への愛が少しもないことを発見する。これは他者への愛に関する最も小さなものである。言い換えれば、もし彼が誰かに質問をするなら、彼はぶっきらぼうに、無関心に彼に答え、それは友に対する人の答え方ではない。むしろ、それは全て冷たく、まるで彼が彼[友]を追い払うかのようである。
そして「もしあなたが他者への愛について考えているならば、何故あなたは、友があなたを愛しているかどうかのあら捜しをしているのか?まるで友達への愛が自己愛に基づいて築かれているかのように。これは私がこの約束から自分の自己愛が獲得したものを見たい理由である」と私に尋ねるな。これらは私の考えではない。むしろ、私は本当に他者への愛が欲しいのだ。
これが、私がこの社会を築くことに興味があった理由である。私がどの人もそれぞれ他者への愛に従事していることを見て、それを通じて私が持つ他者への愛に於ける小さな力が強まり、自分だけで出来る以上に、より力強く他者への愛に従事する力が持てるように。
このことに対して、もし社会がある特定の人々と共に築かれるならば、そして彼らが集まったとき、そこには特にこの「一団」を築くことを希望した人がいたに違いない、という回答がある。こうして彼は、これらの人々がお互いに適していることを見るために、彼らを選別した。言い換えれば、彼らの一人一人が他者への愛の火花(スパーク)を持っていたが、その火花は一人一人の中で輝く愛の光を点火することが出来なかったため、彼らは団結することで火花が大きな炎になるということに同意した。
このため、今また彼が彼らをスパイしているとき、彼は克服し「その社会が築かれたとき、彼らの全員が他者への愛の道を歩まねばならないと一致団結していたように、今もそうである」と言うべきである。そして皆が自分の友達を好意的に評価するとき、全ての火花はもう一度点火し、再び1つの大きな炎が存在するだろう。
トーラー(創世記21:27)の中で「そこでアブラハムは羊と牛を取ってアビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。」と見つけるように、それはバール・ハスラムがかつて、二人の友達が結ぶ契約について尋ねたときに言ったことと同様である。彼はこう尋ねた。「もし彼ら二人がお互いを愛しているならば、もちろん彼らはお互いに対して良いことをする。そして当然の如く、何らかの理由で愛が衰え、彼らの間に愛が全くないときは、彼らはお互いに対して良いことを行わない。だとしたら、彼らの間で契約を結ぶことは、どのような助けになるのか?」
彼は、彼らの間に愛が感じられる今、契約を結ぶ必要はないため、彼らがする契約は今現在のためではないと答えた。むしろ、契約を結ぶことは将来のために意図的に行われる。言い換えれば、彼らはしばらくした後に、今感じているような愛を感じなくなる可能性があるが、それでも彼らの関係を以前のように持ち続けるということ。これが契約を結ぶことの目的である。
次に「全てのものを売る」とは、スパイたちが彼にもたらした全ての出来事を取り除き、その代わりに足に靴を履くということを意味している。それは、まるで彼らがもはや地に存在しないかのように、そのスパイたちを監禁しなければならないという意味であり、そして彼が持つ彼らに関する全ての疑問と要求を閉じ込めるであろう。そしてその後で、すべてがその場所に安らかに至るだろう。
Last Updated (Friday, 17 March 2017 00:33)