明かされたカバラ
明かされたカバラ
〜穏やかで平和な人生のためのガイドブック
内面の安らぎを築きながら、外面の世界を理解するための答えを、はっきりと、分かりやすく伝える一冊。
6章からなる本書は、カバラという古来の知恵にさまざまな側面からアプローチし、これまで謎に包まれ、誤解され続けてきたカバラの教えに新しい光を当てました。繊細かつ深遠な観念で紡がれた各章が、首尾一貫した分かりやすい本を織りなしています。
1章から3章では、欲求の増大が人間を孤立させ、人間元来の性質が現在の世界危機を起こしたこと、それがプラスの変化を阻止していることを説明。その上で4章から6章では、人間のみならず、私たちを取り巻く自然との調和に向かうプラスの変化を構想し、私たちはどうすれば良いのか、自分たちの性質をどう使えば良いのかを探求していきます。個人や社会レベルのみならず、全世界レベルでの変革を求めている人にとっての必読書です。
もくじ
プロフィール
マイケル・ライトマン
アーヴィン・ラズロ教授
まえがきとして
第1章 カバラ今昔
マスタープラン
科学の発祥
カバラの登場
隠して探して、見つからないもの
利他主義の必要性
第1章のまとめ
第2章 最もすばらしい願い
最もすばらしい願い
成長へのジャンプ台
欲求への対処
第2章のまとめ
第3章 創造の起源
創造の起源
スピリチュアル世界
創造の思想の探求
道筋
アダム・ハリション〜共通の魂
第3章のまとめ
(第4章以降は、現在翻訳中のため、追ってアップします)
第4章 私たちのいる世界の森羅万象
私たちのいる世界の森羅万象
ピラミッド
梯子(はしご)を上る
スピリチュアルな欲求
第4章のまとめ
第5章 現実とは誰の現実か?
現実とは誰の現実か?
カバラを学ぶ上での3つの境界線
現実の知覚
第5章のまとめ
第6章 自由のための(狭い)道
自由のための(狭い)道
夜明け前の闇
限界を知る
4つの要因
是正のための正しい環境の選択
免れられないエゴ(利己)の死
自由選択の実行
第6章のまとめ
プロフィール
マイケル・ライトマン
マイケル・ライトマンは真性カバラの世界的権威であり、スピリチュアル的に名高い人物としては、かなり珍しい経歴の持ち主である。自然科学を学び、バイオサイバネティクスで修士号を取得。科学者としてのキャリアを積み、成功を収めた。後に科学的な研究のさらなる追求のためにカバラへ転向。ロシア科学アカデミーにあるモスクワ哲学研究所より、哲学とカバラの博士号を授かっている。
カバラの勉強を始めた1976年以降、ずっと研究を続けており、カバラに新しい道を求めていた1979年、偶然、カバリストでありラビである、バルーフ・シャローム・ハレヴィ・アシュラグ(1906~1991)と出会う。バルーフ・アシュラグは『ゾハールの書』の注釈書である『スラム(梯子)』を著したことからバール・ハスラムとして知られる、ラビ・イェフダ・レイブ・ハレヴィ・アシュラグ(1884~1954)の長男であり後継者である。ライトマンは彼の最も近しい弟子および個人秘書となり、ほとんどの時間を深く尊敬する師と共に過ごし、その教えを可能な限り吸収した。
今日、ライトマンはカバラの当代一の権威と見なされており、30冊の著作は10の言語に翻訳。そのライブレッスンは、ケーブルテレビやインターネットを通じて、世界中に毎日放送されている。近年、米国やヨーロッパの学界では、引く手あまたの講師である。
また、カバラをテーマとする最も広範囲で最大級のインターネットサイト、www.kabbalah.infoを運営する、ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所の創設者および所長でもある。これは、カバラの原典や動画などを20言語以上で無制限に提供しているウェブサイトであり、毎月のアクセス件数は140万件に上る。『ブリタニカ百科事典』は2000年よりkabbalah.infoを、カバラの科学の教材において、またその情報量とアクセス数において、最大級のインターネットサイトの一つとして認めている。
プロフィール
アーヴィン・ラズロ教授
本書のまえがきの執筆を快く引き受けてくれたアーヴィン・ラズロ教授は、システム哲学と一般的進化論の第一級の主唱者である。1932年、ハンガリーのブダペストに生まれ、15歳のときニューヨークでコンサートピアニストとしてデビュー。公演の様子は『ライフ』、『タイム』、『ニューズウィーク』ほか、海外のマスコミでも報じられた。
20代半ばで科学と哲学へ転向し、1963年には記事や書籍を著し始めた。1970年には、パリ大学の一校であるパンテオン・ソルボンヌ大学より、最高の学位である国家博士号(the State Doctorate)を、その後数年間で、米国やカナダ、フィンランド、ロシア、ハンガリーから名誉博士号を授与されている。
2001年には国際理解と発展への献身をたたえられ、日本の平和賞である五井平和賞を授賞。72冊の著作があり、18の言語へと翻訳されている。
まえがきとして
ライトマン博士が筆をとられた、より平和で穏やかな人生への手引書である『明かされたカバラ』に寄稿できることを、とてもうれしく、光栄に思います。著者は大切な友人であるだけでなく、私が考えるには、当代随一のカバリストであり、2000年の間、秘密裏にされてきた知恵を、真に代表する人物です。数ある先住民族の知恵の中で、カバラの知恵が全面的に注目されてきた今、その本質を解き明かすのに適した人物はほかにいない、と思っています。
今日の世界で、人々を導く真の手段としてカバラが出現したことには、唯一無二の意義があります。カバラは先人たちにはあって、私たちが忘れてしまった知恵を再認識するよう助けてくれるのです。
先住民族の知恵が今日現れてきたのは、慣習的、機械的思考という時代の流れが請け合っていた幸福や持続可能性をもたらさなかったからです。中国のことわざは、「行き先を変えなければ、おそらく、今まさに向かっているところに到達して終わる」と戒めています。これを現代の人類に当てはめるなら、悲惨な出来事が起こる可能性が示唆されるでしょう。
気候変動は、私たちの惑星を広範囲にわたって、住むにも食糧を生産するにも適さない、枯れた土地にしてしまう恐れがあります。
さらに、世界経済ではその大部分で自給自足率が低下し、これは不吉にも世界的な食糧備蓄の減少と対をなしています。世界人口の半分以上の人々に、健康的に飲める淡水が足りておらず、平均して毎日6000人以上の子どもが、汚染された水による下痢で亡くなっています。
世界の多くの地域で、暴力とテロが紛争の解決手段として支持され、それにより、富める国も貧しい国も、その双方で不安が深刻化しています。イスラム原理主義がイスラム世界の至るところで広がり、ネオナチほか過激派運動がヨーロッパで次々と起こり、宗教的狂信が世界中に現れています。
まさに今、この惑星における私たちの居住権が問われているのです。
ただし、必ずしも世界規模の崩壊が起こるわけではなく、私たちで流れを変え、以下に述べるシナリオでいくことも当然、可能です。
本書の後半で示すように、私たちが協力して、平和と持続可能性という共通の目的を追求すればいいのです。ビジネスリーダーは変化の大きなうねりを認識し、需要の移行に見合った商品やサービスで応えていくことができるでしょう。
グローバル・ニュースやエンターテインメント・メディアは、新鮮な視点と新たに出現した社会的、文化的イノベーションを探ることとなり、自己と自然に対する新しいビジョンがインターネットやテレビ、企業とコミュニティとの間のコミュニケーション・ネットワークに現れてくるでしょう。
シビル・ソサエティー(市民が自発的に参加することで生まれる社会)では、代わりとなる生活や信頼のおける価値観により、社会的、生態学的に持続可能な政策を支持することが、文化となるでしょう。環境を保護し、食料や資源を分配するすぐれたシステムを創り、持続可能なエネルギーや輸送・農業技術を開発・使用していくことへ向け、措置が講じられるのです。
この明るい展望では、国民のニーズに応えるために軍事・防衛費が当てられることになるでしょう。このようなことが進むことで、国家間や異文化間の国際的な不信や民族紛争、人種紛争、圧制、経済的不平等、男女不平等などすべてが、相互的な信頼と敬意に取って代わられることになります。そして、人々と地域社会は快く協力し、豊かなパートナーシップを形成するのです。
このようにして、紛争や戦争によって崩壊することなく、人類は自ら立ち、協力的なコミュニティによる持続可能な世界を作って、平和で平穏、自己実現を完全に果たした喜びに満ちた未来へ向けて突破していきます。
平和で持続可能な世界は私たち皆を待ち受けていますが、悲しいかな、私たちは現在この方向には向かっていません。アインシュタインはこう述べています。「我々が直面する大きな問題は、我々がそれらを創出したのと同じレベルの思考では解決することはできない」と。しかし、私たちはまさにそうしようとしているのです。テロや貧困、犯罪、環境の悪化、病気などの「文明の病気」に対し、そもそもそれを生み出したのと同じ方法で戦おうとして、技術的な修正や一時的な改善策を試みています。私たちはまだ、永続的で根本的な変化を生み出す意志もビジョンも、喚起していないのです。
惑星意識
今日の地球規模の危機を踏まえ、人類は新たな道や思考法のあり方を模索し始めました。それにあてはまったのが、古代の、先住民族の知恵だったのです。先住民族にとって地球という惑星の意識は、単なる付随的な概念ではなく、本質そのものです。そういったあり方を研究すると、新たな惑星意識とは実際には古くからある永続的な意識だということがわかります。今まさに、それが再発見されています。
事実、惑星意識はもうとっくに見直されるべき時期に来ていました。これまで私たちは、典型的な「普通の」人間の意識とは五感で捉えるもので、それ以外はすべて、想像上のものと考えていました。共通の知覚は、皮膚が終わるところで終わっていたのです。それ以外の物の見方は、「ニューエイジ」や「神秘主義」「秘伝的」などとされていました。理由はわからずとも、私たちは同じところに属す一員で、より大きなものの一部という背景を持つ考えは、文明の歴史の中では例外とされてきました。
しかし、考え方の歴史を見てみれば、真実はまったく逆であることがわかります。過去300年間に西洋世界で進化した、還元的、力学的、断片的な考え方は、標準的と言うよりは例外的なものです。ほかの文化には、この物の見方が共有されていませんでした。西洋であっても、機械的な世界観が現れる前、つまり、ニュートンが自然物理学を適用(というより誤用)した流れをくむ世界観より前は、支持されていませんでした。
他文化においても、近現代を先行している西洋世界においても、意識として浸透していたのは、相互信頼や全体性といったものでした。ほとんどの伝統的な文化は、人が向ける興味や関心に共通のものはなく、偶然に起こる一時的なものしかない、ということに賛意を示しません。
すべての知恵に伝承される古典的なルーツは、「惑星意識」の概念です。この用語が定義しているのは、この惑星に住む人間としての共通の運命への気づきです。自分たちの存在を維持し、子や孫が安全で持続可能な未来に生きることを確かにするために、私たちは惑星意識を育てなければなりません。
前進するためには、人類が一つに結ばれた家族として、惑星文明を形成するための物の見方を育てるしかありません。ただし、この文明は皆が同じ考えに従ったり、誰か一人やどこか一つの国が、他に考え方を押しつけたりする画一的な文化であってはなりません。全システムの発達を維持させるために、文明の各要素を合わせた多様な文明、つまり人類の惑星文明であるべきです。
この多様性は、調和や平和といったものの要素です。存続してきた社会はどこも、それを持っています。西洋や西洋化された社会だけが忘れてしまっているのです。その社会が技術や経済を発展させていく中で、システムの全体性や単一性を砕いてしまいました。それを修復する潮時なのです。
私がライトマン博士の著作から知識を得たところでは、本物のカバラは、人類と宇宙の単一性や全体性といった概念を掲げるだけでなく、それが失われたときの実践的な修復方法を提供しています。私は、本書を熟読されることを心よりおすすめします。古代の知恵についての一般的な知識以上のものが、ここにはあるからです。このまま世界の崩壊へと至るのか、平和と調和があり、健康的で持続可能な世界をもたらす進化の道をとるのか。その二つに一つを選ぶ、いまだかつてない課題に、私たちは直面しています。そういった重大な局面で、人類の幸福を確かなものにする鍵もまた、ここにあるのです。
アーヴィン・ラズロ
第1章 カバラ今昔
マスタープラン
カバラが今日のハリウッドでの流行やその大々的な宣伝から始まったわけではないことは、みなさんもご存知のことかと思います。実際、カバラには何千年もの歴史があります。カバラが初めて現れたとき、人々は今日よりもっと自然の近くで、自然に親しみを感じ、自然との関係性を育んでいました。
当時、人が自然から切り離される理由はほとんどありませんでした。人々は今日の私たちのように自己中心的ではなく、自然環境から孤立していませんでした。そのとき、確かに人類は自然の切っても切れない一部であり、自然との親密な関係を築いていたのです。
さらに、人類は自然を安全と感じるには十分な知識を持っておらず、それどころか、自然の力を恐れていました。人類より優れた力としてかかわるよう、自然の力が私たちを強いていたのです。
一方では自然に親しみ、もう一方では自然を恐れ、人々は自分たちを取り巻く世界について知るだけでなく、ことさら重要なこととして、自然を支配しているのが何であり、誰であるのかを特定したいと強く望んでいました。
人類の黎明期は、今日のように自然の四大元素(地・風・火・水)から身を隠すことはできませんでした。私たちの「人工的」な世界で行っているようには、自然から受ける苦難を避けることはできなかったのです。そして最も重要な、自然への恐れと同時にある自然への近さが、自分たちへ対する自然の計画を調べて見つけ出すよう、当時の人々の多くを促していました。いみじくもその計画とは、現代の私たちへ対するものでもあります。
当時、自然研究の先駆者たちはこの自然のマスタープラン(基本計画)に目的があるのかどうか、もしあるのなら、その中で人類にどんな役割があるのかを知りたがっていました。このマスタープランについて最高水準の知識を習得した人は、「カバリスト」として知られています。
その先駆者として格別な人物はアブラハムです。アブラハムは自然のマスタープランを発見して研究を掘り下げただけでなく、何よりもまずそれを人々へ教えました。人々が苦難と恐れに対しての保証を得るには、自分たちへ対する自然の計画をよく理解するしかないと、アブラハムは知っていたのです。それに気づいてからというもの、アブラハムは教えを請う者であれば誰に対しても、努力を惜しみませんでした。こうして、アブラハムはカバラの教えの継承を始めた、最初のカバリストとなったです。生徒の中で最もふさわしい人物が教師となり、次世代の生徒へ知識を伝えていきました。
カバリストは、自然のマスタープランのデザイナーを「クリエーター(創造主)」と呼び、そのプランそのものを「創造の思想」と呼んでいます。つまり重要なのは、カバリストが自然や自然の法則について語っているとき、それはクリエーターについて話しているということ。逆もまたしかりで、カバリストがクリエーターについて語っているのは、自然や自然法則のことなのです。この2つの言葉は同義語になります。
「カバリスト(Kabbalist)」という用語は、ヘブライ語のカバラ(kabbalah:受け取り)を語源とします。カバラの原語はヘブライ語です。ヘブライ語はことにカバリストによって、カバリストのために発達した言語であり、スピリチュアルな事柄をカバリスト同士が伝達し合うのを助けます。ほかの言語で書かれたカバラの書籍も多々ありますが、基本的な用語には一貫してヘブライ語が用いられています。
カバリストにとって「クリエーター」という言葉が意味するものは、超自然的なものでも、実在する誰かでもなく、人類がより高い知識を追求して到達すべき次の段階という意味があります。ヘブライ語で「クリエーター」はボレー(Boreh)と言いますが、この言葉は「ボ」(Bo:来る)と「レー」(Re'eh:見る)という2つの単語から成り立っています。したがって、「クリエーター」という言葉は、スピリチュアル世界を体験してもらうための、個々人への招待状なのです。
科学の発祥
歴史上、最初のカバリストたちが獲得した知識は、出来事の背後にある物事のしくみを理解するだけにとどまりませんでした。その知識によって、私たちが直面する自然現象を説明することができるようになったのです。ですから、カバリストたちが教師になったことも、彼らが伝えた知識が古代において、そして現代において、科学の基礎となっていることも当然なのです。
きっと皆さんはカバリストのことを、ろうそくが灯された薄暗い部屋で、摩訶不思議な聖なる書物をしたためている隠遁生活者かのように思っているでしょう。そうです。確かに20世紀末まで、カバラはずっと秘密にされてつづけてきました。その秘匿された研究方法が、カバラについての数々のうわさ話や言い伝えを作り出しました。そういった話のほとんどは事実に反しているにもかかわらず、最も厳格な思想家でさえ、依然としてそれに困惑し混乱させられています。
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偉大な数学者であり哲学者であるゴットフリート・ライプニッツ(訳注:ドイツの学者、1646ー1716)は、この秘密主義がカバラに及ぼした影響を率直に述べている。「人は秘密を明かす鍵を持っていなかったため、知識への渇望は、魔法という間違った名の下のありとあらゆる幻想だけでなく、最終的に真のカバラとはほとんど共通性のない雑学や迷信におとしめられた。これが『通俗的なカバラ』を促進させたのである。そして、魔法という間違った名の下のさまざまなファンタジーにカバラの書籍が占領されているのだ」
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しかし、カバラは常に秘密にされていたのではありません。実際、初期のカバリストは広くこの知識を開示しており、同時に、当時の社会に大きく必要とされていました。しばしばカバリストは、国家の指導者でもあったのです。おそらくその中で最もよく知られている例は、偉大なカバリストであり指導者でもあったダビデ王でしょう。
社会に必要とされたカバリストが当時の学者に力を貸したことで、今の私たちが「西洋哲学」と呼ぶものの基礎が発展していきました。後にそれは現代科学の土台となっています。これについては、人文学者であり古典学者、また古代の言語と伝統の専門家である、ヨハンネス・ロイヒリン(訳注:1455–1522)が、著書『デ・アルテ・カバリスティカ(De Arte Cabbalistica)』(For on the art of Kabbalah/カバラという人文科学について)の中でこう書いています。
「我が師であり哲学の父であるピタゴラスは、カバリストから教えを得た。(中略)ピタゴラスは当時まだ知られていなかったカバラの言葉を、ギリシャ語の哲学に初めて置き換えたのだ。(中略)カバラは我々を塵の中で生かすことなく、我々の精神を最高位の知識へと向上させる」
反対方向への道
しかし、哲学者はカバリストではありませんし、カバラを勉強していなかったため、カバラの知識の深いところを理解しきれませんでした。その結果、カバラ特有の方法で展開され扱われるべき知識に、不適切な方法がとられてしまったのです。カバラの知識が世界の他地域へ移るときも、そこにカバリストがいなければ、そこでもまた異なった道を進むことになりました。
こうして、人類は回り道をすることになったのです。西洋哲学はカバラの知識の一部を取り入れているものの、結局のところまったく違った方向へ進んでしまいました。西洋哲学が生み出した科学は、私たちが五感で知覚している物質世界を研究するものですが、カバラは私たちの感覚が知覚する範囲外のことを研究する科学です。そこにある違いが人類を、カバリストが獲得した元来の知識とは反対方向へ走らせてしまったのです。ここで方向が変わったことで、人類は遠回りをすることになりました。その結果については、先の章で探っていきましょう。
重大な問い
カバラが隠されたのは約2千年前のことです。その理由は単にカバラの需要がなくなったからでした。それより後、人類は一神教に夢中になり、後には科学の発達にかかりきりでした。そのどちらもが、人が抱く最も根本的な疑問に答えるためのものでした。「この宇宙で、この世界で、我々がいるところとは何なのか?」「存在の目的とは何なのか?」つまり、「なぜ生まれてきたのか?」といった疑問です。
しかし今日、かつでないほど多くの人が、この2千年の間にとられてきた方法では、もはや自分たちのニーズは満たせないと感じています。宗教と科学が与える答えでは、もう満足しないのです。そういった人々はどこかほかに、人生の目的という最も基本的な問いに対する答を探しています。東洋の教えや占い、魔法、神秘主義へと目を向け、中にはカバラへ向かう者もいます。
カバラは、これら根本的な問いに答えるために系統立てられています。そのため、カバラはその問いに直接的にかかわる答えを差し出します。人類がカバラから遠ざかり哲学へ向かったとき、自然との間に生まれた断絶。まさしくそれを、人生の意味に対する古代の答えを再び見つけることによって修復しているのです。
カバラの登場
カバラは約5千年前、現在のイラクにあたるメソポタミアの古代国家で、この世に「初登場」しました。メソポタミアはカバラだけでなく、古代の教えや神秘主義の発祥の地でもあります。当時の人々は多種多様な教えを信じていました。同時に複数の教えに追従する人も多々いました。占星術や占い、数秘術、魔術、魔法、呪文、邪眼*ほか多くのものが、古代世界の文化の中心地であるメソポタミアで発展し繁栄していました。
*悪意をもってにらむことで人に災難や不幸をおよぼすもの
そういった信仰に満足してる状態では、人々は変わる必要性を感じません。人々は、安全に楽しく暮らすために必要なことを知りたがっていました。自分たちの起源について、つまり最も重要なことである、誰が何が、人生の法則を創ったのかということを問うことはなかったのです。
一見、それらの問いにさほど差はないように見えるかもしれません。しかし実際は、人生に対する問いと人生を形創る法則に対する問いには、車の運転方法と車の作り方の習得ほどの違いがあります。完全に異なった層の知識なのです。
変化へのエンジン
欲求はいきなり降って湧いてはきません。それは人の内側に無意識のうちに生じて、「ピザを食べたい」などと定義付けが可能になったときに表に出てきます。そうなる前に欲求を感じることはありません。感じたとしても、せいぜいなんとなく落ち着かないといった程度です。皆さんは何かを欲している感覚があっても、それが何かまったく分からないという経験をしたことがあると思います。そう、それはまだ熟していない欲求なのです。
かつてプラトンは「必要は発明の母である」と述べましたが、それは正しかったのです。同様にカバラも私たちにこう教えています。私たちが何かを習得するには、まずそれを欲することだと。これはとても単純な公式です。私たちは何かを欲すると、それを得るために必要なことをします。時間を作り、力を奮い立たせ、必要な技術を上達させます。つまり、変化を起こすエンジンとは欲求である、ということです。
私たちの欲求の進化が、全人類の歴史を定めデザインしていきます。人類の欲求が発達するにつれ、欲求は人々に対し、自分たちを取り巻くものを研究するようにと促します。そうすることで、自分たちの要望を満たしていくのです。鉱物や植物、動物とは異なり、人はずっと進化し続けています。各世代、皆それぞれに、欲求はますます強くなっているのです。
ハンドルを握る
変化を起こすエンジンである欲求は、0から4の5つの段階から成り立っています。カバリストはこのエンジンのことを「喜びを受け取りたいという意志」、もしくは単に「受け取りの意志」と言っています。およそ5千年前、カバラが最初に登場したとき、受け取りの意志の段階は0でした。みなさんがお察しのとおり、今日の私たちは4段階目の極限状態にいます。
しかし受取りの意志が0段階であった人類の黎明期は、欲求は自然から私たちを切り離したり、互いを孤立させたりするほど強くはありませんでした。当時は、自然と一体となった状態が生きるうえでごく普通の方法だったのです。今日、その方法を多くの人が高いお金を払い、瞑想のクラスで習得し直しています(必ずしもうまくいっていないことに向き合いましょう)。当時の人々はそれ以外の方法を知りませんでした。自分たちが自然から切り離されたり、自らそれを望んだりすることになろうとは、知るよしもなかったのです。
実際、当時の人類は自然や他者と、とても滑らかに心を通わせ合っていました。言葉すら必要ありませんでした。人々は思考によって、意思疎通をしていました。それはテレパシーのようなものでした。調和の時代であり、全人類はまるで一つの国家のようでした。
しかし、すでにメソポタミアの時代には、変化が生じます。人々の欲求は大きくなり始め、より利己的になっていきました。自然を変えて自分たちのために利用したいと欲し始めたのです。自分たちを自然に適合させるのではなく、自分たちの必要性に合わせて自然を変えたいと欲し始めました。人々は自然から切り離されていき、自然や他者との間に隔たりが生まれ、互いに遠ざかっていきました。幾世紀もが過ぎた今日、私たちはそれが良くなかったことに気付いています。なにしろ、それではうまく機能していません。
当然のことながら、人々は環境や社会に反する立場を取り始め、もはや自分以外の人々と身内のように親しくかかわることも、自然を自分の家にすることもしなくなりました。愛は憎しみに置き換えられ、人々の間には溝ができ、互いに離れていったのです。
その結果、古代世界に存在していた単一国家が分裂しました。まず2つのグループに分かれ、東と西に流れていきました。その2つのグループは分裂を繰り返してバラバラになり、最終的に今日の世界にあまたある国家を形成していったのです。
『聖書』(旧約)が「バベルの塔の崩壊」として記している、この分裂の最も顕著な兆候は、種々多様な言語が創られたことです。言語が分かれたことで、人々は互いに切り離され、混乱し、正常な機能を果たさなくなりました。ヘブライ語で混乱を意味する言葉は「ビルブル」(Bilbul)ですが、メソポタミアの首都のバベル(ヘブライ語/Babel:英語/Babylon」という名は、この混乱(ビルブル)から来ています。
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このビルブル(Bilbul:混乱)が起っていた当時、アブラハムはバビロンに住み、小さな偶像を制作している父を手伝って、家族で店を営み、その偶像を販売していた。古代世界のニューヨークであるバビロンでは、はやりの概念が寄せ集まり、活気付いていた。そのごたまぜ状況の真っ只中にアブラハムがいたことは、理解するに難くない。この混乱はまた、ずっとアブラハムが持ち続けていた問いに対する答えを与え、アブラハムに自然法則を発見させた。つまり、「誰がこの首都の所有者なのか?」ということ。アブラハムがこの混乱と孤立にある目的に気づいたとき、耳を傾けようとする人なら誰にでも、即座にアブラハムはそれを教えた。
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この分裂以降、つまり欲求が段階を0から1へ上げて以降、私たちは自然に対向し続けています。自然、つまりクリエーター(創造主)と一体のままでいるために、大きくなり続けるエゴイズム(利己主義)を是正しようとはせずに、機械的な科学技術という盾を構築し続け、自然から自分たちを守ろうとしています。そもそも最初に科学技術を発展させた理由が、自然の要素から離れ、自分たちの存在を守られたものとして確保するためでした。しかし、気付いていようといまいと、実のところ私たちはクリエーターを支配しようとして、結局その運転席を乗っ取ろうとしているのです。
隠して探して、見つからないもの
人類が持つエゴイズム(利己主義)は段階を上げつづけ、その都度、私たちを自然(クリエーター)から遠ざけています。カバラは距離をインチやヤードで測ることはしません。距離は資質で測られます。クリエーター(創造主)の資質とは、全体性やつながり、与えるといったもの。その「彼(クリエーター)」の資質を分ち合うときにだけ、「彼」を感じることができるのです。自己中心的な人には、クリエーターのような全体的で利他的なものに、つながる手立てがありません。それは、背中合わせに立っている相手を見ようとするようなものです。
私たちはクリエーターの後で反対を向いて立ち、今もなお「彼」をコントロールしたいと望んでいます。ここで明らかなのは、努力すればするほど、より欲求不満になっていくということです。確かに、見えもしなければ感じられもしないものを、コントロールなどできやしません。Uターンして反対方向を見て、クリエーターを見つけない限り、この欲求は決して満たされないのです。
科学技術は富や健康、そして最も重要なこととして、未来の安全を私たちに約束していました。しかしその約束は破られ、そのことに多くの人がうんざりしています。また今日、それらすべてを手にしている人はほんのわずかで、その人たちでさえ明日も同じ状態でいられるかは分からないのです。しかし、ここにある利点は、この状態が私たちに方向性を再検討させ、問わせること。「もしかして私たちは、ずっと間違った道を歩み続けてきたのではないか?」と。
特に今日、自分たちが直面している危機や難局を認めるにつれ、これまで選択してきた道は袋小路だったことが公然となりました。自己中心的な、自然と真逆の私たちの性質。これを科学技術をもって補うのではなく、利己的から利他的なものに性質を変えることで、自然との統合へ至るべきだったのです。
カバラでは、この変化に対して「ティクン」(Tikkun/是正)という専門用語が使われます。自分たちがクリエーターから真逆であることを知るには、5千年前、私たち(人類)の間に起った分裂を認めざるを得ない、ということです。これを「悪の認識」と言います。たやすいことではありませんが、これが真の健康と幸せへの初めの一歩なのです。
世界的危機がもたらすハッピーエンド
過去5千年にわたって、メソポタミアから分裂した2つのグループは、それぞれいくつもの異なる民族の文明を進化させました。初期の2つのグループのうち、一つは「西洋」文明と呼ばれるものに、もう一つは「東洋」として知られる文明になりました。
この2つの文明間の衝突が悪化していくのは、最初の分裂に始まった一連の過程の頂点が映し出されるからです。5千年前、一つであった国家は増大したエゴイズム(利己主義)によって分裂し、人々はバラバラになりました。この「国」、すなわち人類をつなげ直し、再び一つの国になるとき。それは、今です。私たちは依然として、あのはるか昔に起こった分裂の段階にいますが、今日、私たちはそのことを以前よりはるかに認識しています。
カバラの知恵によると、この文明の衝突と、古代メソポタミアで栄えた神秘的な信仰が再浮上していることは、新しい文明に人類が再結合していく始まりを示しています。私たち皆がつながっていること。粉砕前の状態を再構築しなければならないこと。今日の私たちは、それに気付き始めています。統一された人類を再構築することで、私たちと自然、つまりクリエーターとのつながりもまた、建て直すのです。
エゴイズム(利己主義)とジレンマ
神秘主義が栄えていた時代にカバラの知恵は発見され、エゴイズム(利己主義)の段階的発達と、それによって引き起こされるものについての知識が提供されました。カバリストは存在するすべてのものが、自分を満たすための欲求によってできていると教えました。
しかし、欲求が自己中心的であると、自然な形で満たされることはありません。なぜなら、欲求が満たされると、私たちはその欲求を消してしまいます。そして、欲求をなくしてしまったら、もう楽しむことができません。
例えば、あなたの大好物を思い浮かべてください。そして想像しましょう。今あなたは、高級レストランにいて、座り心地抜群な椅子のあるテーブルについています。ウェイターがほほ笑みながら蓋付きのお皿を運んで来て、あなたの目の前に置きます。そして、蓋を開けると……なじみのあるおいしそうな香りが! 楽しんでますか? あなたの体は楽しんでますね。だって、この料理を思い浮かべるだけで、唾を飲み込んでいるでしょうから。
しかし、食べ始めて間もなく、喜びは減っていきます。あなたのお腹が満たされるほど、食べることから得られる喜びが少なくなっていくのです。ついには満腹となり、もう御馳走を楽しめず、食べることを止めます。満腹だから止めるのではなく、満杯の胃袋では食べても楽しくないからやめるのです。ここに、エゴイズムのジレンマがあります。人は望むものを手に入れたとき、もはやそれを欲することはないのです。
したがって、私たちは喜びなしには生きられないため、新しくより大きな欲求を探し続けなければならない、ということになります。新しい欲求を生じさせることでそうしても、そこにまた満たされないものが残ります。これは悪循環です。私たちが望めば望むほど、明らかに虚しさを感じ、虚しさを感じるほど、欲求不満はつのるのです。
今、私たちは人類史上、最強の欲求段階にいます。間違いなく、先人たちよりも多くのものを持っているにもかかわらず、かつてないほどの欲求不満を抱いている、という結論は避けられません。片や私たちが持っているもの、方やつのっていく欲求不満。対照的なこの2つにある著しい相違が、今日の私たちにある危機の実態です。利己的になればなるほど、私たちはより虚しさを感じ、危機が悪化していくのです。
利他主義の必要性
もともと人はすべての人と内面でつながっていました。皆で一人の人間であると感じ、考えていました。これはまさしく、自然がとる私たちへの態度です。この「集合体」としての人間は、「アダム」と呼ばれています。これはヘブライ語のドメ(Domeh:類似)から来ている言葉で、一つであり全体である、クリエーター(創造主)との類似、という意味があります。しかし、当初一つであったにもかかわらず、エゴイズム(利己主義)が増大するにつれ、徐々に私たちはその一体感を忘れてしまい、互いにだんだんと距離ができていったのです。
カバラの書物に記している自然の計画では、私たちが互いに隔てられ憎み合っていることを認識するまで、エゴイズムは増大していくとあります。この計画の背後には、初めに自分たちを一つの実在として感じ、その後でエゴイズムへと分離され、バラバラの個人に引き離されなければならない、という論理があります。そうなって初めて、私たちは自分たちがクリエーターと真逆で、完全に利己的であると知るようになるのです。
さらに言えば、これは、エゴイズムが私たちにとって良いものでも、満足を与えてくれるものでもなく、最終的には絶望しかない、と自覚するたった一つの道です。すでに述べたように、エゴイズムは私たちを互いから、また自然から切り離しています。しかしここから変化するためにはまず、これがまぎれもない事実なのだと認識しなければなりません。これにより、私たちは変化したいと思うようになり、自分たちの力で自らを利他主義へ変換する方法、つまり再び全人類と自然、すなわちクリエーターとつながる方法を見つけていけます。結局、すでに述べてきたように、欲求が変化へのエンジンということです。
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カバリストであるイェフダ・アシュラグは、上層の光が欲求の中に入り、出ていくことは、私たちに課せられた務めに適した器、利他主義の器を創ると書いている。言い換えれば、もし私たちがクリエーター(創造主)との統一を欲するのであれば、まず私たちは「彼」(クリエーター)に統合され、その後で統合の喪失を体験しなければならない。この両方の状態を体験することで、私たちは意識的な選択ができるようになる。この意識が統一のために不可欠なのだ。
これは子どもの成長過程になぞらえられる。両親とのつながりの感覚の中にいる赤ん坊から、10代の反抗期を通り、最終的に大人になって、その子は両親の育て方を理解し正当化するのである。
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実を言うと、利他主義は選択肢にはなりません。エゴ(利己)か利他かを選択できるかように見えているだけです。しかし自然を探求すれば、利他主義が自然法則の根底をなす最たるものだと分かるでしょう。例えば、体の各細胞は本質的に利己的です。しかし、己の存在のためには体が健康でなければならず、したがって自らの利己的な傾向を断念せざるを得ません。そして、細胞はそれ自体の存在だけでなく、体全体の生を味わう、という褒美を得ます。
私たちも互いに、同様の関係を築かなければなりません。そして緊密な関係が築かれるにつれて、いつかはなくなる体としての存在ではなく、アダムという永遠の存在を感じいくことになります。
特に今日、私たちが生き残るうえで、利他主義が不可欠になっています。私たちは皆つながっていて、互いに依存し合っていること。それが明らかになって来ているのです。この傾向が利他主義の極めて正確な定義を、新たに産み出しています。人類が一つの存在へつながる必要性。そこから来る行動や意図は、利他主義とみなされます。それに反して、人類のつながりへ焦点を当てていない行動や意図は、どんなものであっても利己的です。
つまり、私たちの自然との真逆さが、この世で見るすべての苦しみ源、ということです。鉱物や植物、動物といった自然にあるすべてのものは、本能的に自然の利他的な法則に従っています。人類の振る舞いだけが、人類以外の自然やクリエーターと対照的なのです。
さらに、私たちがまわりに見ている苦しみは、私たちだけのものではありません。人類以外の自然をなす全要素が、人類の不当な行為に悩まされています。各要素はどれも本能的に自然法則にしたがっていて、人だけが従っていないのであれば、人は自然の中で唯一の破壊要素となります。簡潔に言えば、私たちがエゴイズムから利他主義へと自分たちを是正するとき、生態系も食料不足も、戦争も社会全体も、すべてが正されます。
知覚の強化
利他主義には、特別ボーナスがあります。利他主義によって変化するのは、自分より他者を優先させることだけのように見えるかもしれません。しかし実際には、それよりはるかに大きなメリットがあります。他者のことを考え始めると、私たちはその人たちに、その人たちは私たちに、統合されていきます。
こう考えてみてください。今、世界には約65億人がいます。もし、2本の手と2本の脚、そしてそれをコントロールする一つの脳の代わりに、130億本の手と130億本の脚、そしてそれを65億の脳でコントロールしているとしたら? 混乱を招きそうですか? そんなことはありません。なぜなら、全部の脳が単一の脳として機能し、すべての手が一対の手として機能するからです。すべての人類が、65億倍に強化された能力を持つ、一つの身体として機能するということです。
でもこれでは、まだボーナスをもらっていません! 利他的になると超人的な人類になることに加え、あらゆるものの中で最も望ましい贈り物をもらうことになります。それは全知(無限の英知)や完全記憶力、総合的な知識です。利他主義はクリエーター(創造主)の性質のため、それを獲得すると私たちは「彼」(クリエーター)と同じ性質になり、まるで「彼」のように考え始めます。そして、あらゆることの起こる理由や、それが起こるべきとき、それを別の形で起こすにはどうすべきかを知るようになります。これが、カバラで「形態の同等性(同じ性質を持つこと)」と呼ばれる、創造の目的です。
知覚が強化された状態、つまり形態の同等性の状態には、私たちが創造されたそもそもの理由があります。私たちが一体のものとして創造され、その後で壊されたのは、私たちが再び一体となり、統合するためだったのです。自然がなぜそのようなことをしたのか。統合への過程で、私たちはそれを学んでいきます。そして、この創造の思考と同等の賢さを持つようになるのです。
自然と一体となると、私たちは自然のように、永遠で完全な状態を感じ始めます。その状態では、たとえ体が死んでも、永遠なる自然の中で生き続けることを感じるのです。物質的な生と死は、もはや私たちに影響を及ぼしません。なぜならそれまでの自己中心的な知覚は、全体なる利他的な知覚に置き換えられているからです。私たちの生は自然全体の生となるのです。
今がそのとき
カバラの『聖書』である『ゾハールの書』は、およそ2千年前に書かれました。それは、20世紀末へ向け、人間のエゴイズム(利己主義)がかつてないほどの強烈なところまで急上昇するだろう、と述べています。
すでに見てきたように、望めば望むほど、ますます私たちは空虚さを感じます。ですから、人類は20世紀末からずっと、史上最悪の空虚さを感じているのです。『ゾハールの書』もこう述べています。この空虚さが感じられたとき、人類はそれを癒やし、満たされるための救助手段を必要とするだろう。さらに、こうも述べています。カバラが全人類に示されるときがやって来る。そしてそれは、自然と類似することによって満たしを獲得する手段となるだろう。
満たしを獲得する過程であるティクン(Tikkun)は、突然起こることもなければ、全員同時に起こることもありません。ティクン(Tikkun)を起こすには、それが起こるように望まないといけません。それは、人の意思の力によって進化をしていく道のりです。
自分の性質が悪の源であると人が気づいたとき、是正は始まります。これはとても強烈な私的体験です。しかし、これが利己(エゴ)から利他へ変化したい、移りたいという欲求を、必ず人にもらたします。
すでに述べてきたように、クリエーター(創造主)は私たち皆を統合された一つの被造物(創られた存在)として扱います。私たちは目的を利己的に成し遂げようとしてきましたが、今日、私たちの問題は集団的、利他的にしか解決されないことが分かっています。自分たちのエゴイズムを意識すればするほど、カバラのメゾッドを使って、自分たちの性質を利他に変えたいと思うようになります。カバラが初めて世に現れたときとは違い、今の私たちにはそれができます。今は、それが必要なのだと、知っているからです!
人類の進化は過去5千年の間、あるメソッドを試みては、そのメソッドによってもたらされる喜びを調べ、幻滅し、別のメソッドへ移っていく過程を経てきました。いくつものメソッドが現れては消えていきましたが、私たちは幸せになれませんでした。そして今、最高レベルのエゴイズムを是正することを目的として、カバラのメソッドが登場したのです。これからはもう、幻滅する道を歩く必要はありません。カバラを通して自分たちの最悪なエゴイズムを自然に是正できます。するとすべてがドミノ倒しのように、連鎖反応で是正されていきます。このようにして、私たちはこの是正の間、満たしやインスピレーション、喜びを感じることができるのです。
第1章のまとめ
カバラの知恵(受取りの知恵)が初めて現れたのは約5千年前。そのとき人類は、自らの存在の目的を問い始めていた。その目的を知っている者は「カバリスト」と呼ばれ、人生の目的と宇宙における人類の役割に対する答えを持っていた。
しかしその当時、大抵の人が持つ欲求は、この知恵を追い求めるには小さすぎた。そのため、カバリストは人類に自分たちの知恵は必要ないと見てその知恵を隠し、すべての人の準備が整うときまで秘密裏に準備を進めていた。その間人類は、宗教や科学といった別の道筋を開拓していた。
宗教や科学は人生についての深い問いに対する答えを与えてくれない。今日、そう確信した人の数が増え、その答えをどこかほかのところへ探し始めている。これはカバラが待ち望んでていた瞬間であり、カバラが再び現れた理由である。存在の目的への答えを与えるために……。
カバラは自然について伝えている。自然とはクリエーター(創造主)の同義語で、それは全体であり利他であり、結合である。そして、こう伝えている。私たちは自然を理解するだけでなく、自分の内側でこのような存在の仕方を実行したい、と欲することが必須であると。
カバラはこうも伝えている。そうすることで、私たちは自然と同等になるだけでなく、その背後にある思想、つまりマスタープランを理解することになるだろうと。そして最終的に、マスタープランを理解することで、私たちはそのプランの計画者と等しくなる。これがクリエーターと等しくなるという創造の目的なのだ。そう、カバラは述べている。
第2章 最もすばらしい願い
最もすばらしい願い
これまでカバラの起源について紹介してきましたが、ここからはカバラと私たちとの関係を見ていきましょう。
多くの方がすでにご存知のように、カバラの研究で使われる用語には、非常に多くの言語が取り入れられています。ほとんどはヘブライ語ですが、ほかにもアラム語やギリシャ語などもあります。しかし、朗報があります。初心者はこれらの用語のほんの一部で事足ります。中級者でもそうです。それらの言葉はスピリチュアルな状態を示していますが、その正しい意味は、皆さんが言葉の意味を自分の内側で体験したときに見つけていきます。
カバラは欲求について、そしてその欲求をどう満たすのかについて、述べています。カバラでは、人間の魂について、その魂の成長について、研究してきました。始めはスピリチュアルな種というようなの低い段階から、生命の樹というような最高峰の段階に至る魂の成長です。そして一度その骨子をつかめば、残りの部分についても心の中で学んでいけるようになります。
成長へのジャンプ台
ではさっそく、第1章を終えたところからみていきましょう。私たちがエゴイズム(利己主義)をこれまでとは違った形で使うこと、つまり一つのスピリチュアルな存在として他者と結合するということを学びさえすれば、物事はすべてよくなると述べました。また、そのための方法、つまりその目的のためにだけに考案されたカバラというメソッドがあることも学びました。
しかし周りを見回せば、私たちが前向きな未来へ向かっていないことははっきりしています。私たちは危機に、それもかなりひどい状態に瀕しています。たとえ今、害がなくても、ずっと無事でいられる保証はないでしょう。各個人の生活や私たちが暮らしている社会、自然。そのどこであっても、危機がその爪跡を残していないところはないかのようです。
個人や社会、自然に及ぼされる危機は必ずしも悲観的ではありません。それらは単に、現状は事が尽き、次の層へと動くときが来た、ということを示しています。民主主義や産業革命、女性解放運動、量子物理学。こういったものはすべて、その分野に起こった危機の結果として現れました。実際、今日存在するすべてのものは過去の危機のたまものです。
今日の危機は過去の危機と本質的な違いはありませんが、以前よりはるかに強烈な影響を全世界へ及ぼしています。しかしどんな危機でもそうですが、それは変化する機会であり、成長へのジャンプ台です。もし私たちが正しい選択をするのなら、あらゆる苦難は消えてなくなるでしょう。食べ物も水も住居も、全世界へたやすく供給できるでしょう。世界平和を確立し、この世界を成長した、活力と叡智ある星にすることが可能でしょう。しかしそれを起こすために、そうなるように欲し、自然が私たちに望むことを選択しなければなりません。それは現在私たちが選択している分離ではなく、統合の選択です。
ところでなぜ、私たちはつながりたくないのでしょうか? なぜお互いを疎んじるのでしょうか? 前進すればするほど、また知識を得れば得るほど、私たちの不満は高まります。私たちは宇宙船や分子サイズのロボットの作り方を取得しました。そして人間のゲノム(訳注:DNAに含まれる遺伝子情報の総体)も解読しています。それなのになぜ、幸せになる方法を習得できないのでしょうか?
カバラを学べば学ぶほど、カバラが常に私たちを物事の根源へ導いていることに気付きます。カバラは皆さんに答えを与える前に、皆さんが現在の状態にいる理由を教えてくれます。そして、一度自らの境地の根源を知ったのなら、ほかのどんな導きも必要なくなるでしょう。そうした考えから、今日まで私たちが取得してきたものを見てみましょう。きっと、私たちがなぜ幸せへの鍵をまだ発見できていないのか、という理由が見つかると思います。
秘密裏に
人が……満たされていないか、ろくな教育を受けていないのなら、人は地上で最も野蛮な生き物である。ーープラトン『法律』
知識はずっと財産であるとみなされてきました。スパイ活動というのは、現代で考案されたわけではありません。それは歴史の幕開けとともに存在していました。知識は常に極秘とされ、知る必要がある人だけに開示されていたためです。そのため、そこにはもっぱら誰が知るべきかという論争がありました。
過去には、知識ある人のことを「賢者」と呼んでいました。また、賢者たちが持っていた知識は、自然の秘密に関するものでした。そして、知識を得るに値しないと思われる人々の手に渡ることを恐れ、賢者はその知識を隠したのです。
しかし、知る権利がある人をどのように判断するのでしょうか? 情報をいくらか独占しているからといって、それを隠す権利があるのでしょうか? 当然、誰も自分が知るに値しないとは認めません。だから人々は必要な情報、公然と入手できない情報はどんなものでも「盗もう」とするのです。
しかし、常にそうだったわけではありません。昔、エゴイズム(利己主義)が最高段階に達する前、人々は個人の利益よりも先に公益を考えていました。そして、自分自身にではなく、全自然と全人類につながりを感じていました。当時の人々にとって、それが自然なあり方だったのです。
しかし今日、私たちの考えは劇的に変わり、私たちはすべてを知り、すべてを行う権利があると信じています。私たちのエゴイズムの段階が、自動的にそうさせているのです。
実際、人類が欲求の4段階目に達する前ですら、学識者はお金や名誉、権力といった物質的な利益のために、知識を売り始めていました。物質的な誘惑が大きくなるにつれ、もはや人々はつつましい生活様式を続けることも、自然研究に専念することもできなくなりました。それどころか、それら狡猾な人々が物質的な快楽を得るために、自らの知識を使い始めたのです。
今日、科学技術の進歩とエゴ(利己)の高まりによって、知識の誤用は普通のことになっています。しかし、技術が進歩すればするほど、自分たちにも、周りの環境にも、危険が増していきます。私たちは力を増すにつれ、欲しいものを得るためにもっと力を利用するよう誘惑されるのです。
すでに述べたように、受け取りたいという欲求はその強さに応じた4つの段階で構成されています。欲求が大きくなるほど、社会的、倫理的落ち込みが激しくなります。ですから、私たちが危機に瀕していることも不思議ではありません。また、賢者たちが知識を隠した理由も、今大きくなったエゴイズムが知識を公開するように強いてくる理由も、とても明白です。
自分たちを変えなければ、知識と進化が私たちを助けることはなく、すでにある害よりもっとひどいものを生み出すだけとなるでしょう。そのため、科学の進歩が良き人生を約束し、守ってくれると期待するのは、あまりにも浅はかです。より明るい未来を望むときに必要なのは、ただ自分たちを変えることなのです。
欲求の進化
人間の本性はエゴイスティック(利己的)だ、という声明が大きく報じられることは、何であってもまずないでしょう。しかし、私たちは生まれつき利己的なため、一人の例外もなく、知っていることを悪用する傾向があります。これは、犯罪を実行するために知識を用いる、ということではありません。仕事でふさわしくないのに昇進したり、親友の愛する人を奪ったり、とても小さな、一見ほんのささいなところに表れます。
エゴイズム(利己主義)についての大ニュースは、人類の性質が利己的だということではありません。それは、私がエゴイスト(利己主義者)であるということです。初めて自分のエゴイズムに直面するのは、ものすごくハッとするような体験です。そういった体験はいつ何時も、頭痛の大きな種であるものです。
受け取りたいという意志が絶えず進化していくのには、もっともな理由があります。本書でも少し後でそれに触れていきます。しかし差し当たっては、知識の獲得方法にある進化の役割に焦点を当てていきましょう。
新しい欲求が現れると、新しいニーズが生み出されます。そういったニーズを満足させる方法を探そうとして、私たちは心を発達させ精神を向上させます。言い換えれば、進化を生み出すのは、喜びを受け取とうろする意志の進化なのです。
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欲求の第1段階は、食べ物やセックス、家族、住居といった物質的な欲求に関連している。このような欲求は、この世のすべての生き物に等しく分け与えられた、最も基礎的な欲求である。
第1段階の欲求とは違い、ほかの段階はすべて人類特有のものであり、人間社会の中から生じる。第2段階は富への欲求。第3段階は名誉や名声、支配への欲求。第4段階は知識への欲求である。___________________________________________________________________
欲求の進化という観点から人類の歴史を眺めると、この大きくなった欲求がどうやってあらゆる概念や発見、発明を生み出してきたのかが分かります。実際、各発明は欲求が生み出す要望や、高まりつつあるニーズを満たすために、私たちを助けてくれる道具です。
幸せや不幸せ、喜びや苦しみは私たちがどの程度、自分たちのニーズを満たすかによって決まります。しかし満足を得るには努力が必要です。実際、私たちは、欲求によって突き動かされています。そのため、カバリストであるイェフダ・アシュラグによれば、「人は、たとえわずかな動きであっても、動機なしに行うことはできない。(中略)なんとかして、自分へ利益をもたらそうとする」とのこと。さらに、「例えば、人が手を椅子からテーブルへと動かすなら、それはその人が手を椅子からテーブルへ動かすことで、より満足を得られるだろうと考えるからだ。もしそう考えていないのなら、その人の残りの人生は、ずっと手を椅子に置いたままになる」とあります。
前章でエゴイズムとは、「キャッチ=22」(どうもがいても解決策が見つからないジレンマ)であると述べました。つまり、喜びの強さは欲求の強さによるということです。満足度が上がるにつれ、反比例して欲求の度合いは下がります。ですから、欲求が消え去ると、喜びも消えてしまいます。何かを楽しむためには、私たちはそれを欲するだけでなく、欲しつづけないといけない、ということです。そうしなければ、喜びは徐々に消えてしまうのです。
しかも、喜びは欲している物質の中にあるのでなく、喜びを欲する人の中にあります。例えば、マグロが大好物だとしても、マグロの中に何かしらの喜びがあるわけではありません。そうではなく、マグロという「形」の中にある喜びが人の中に存在しています。
マグロに、赤身やトロといった自分の身を楽しめるかどうか、尋ねてみてください。マグロが前向きに答えてくれるとは思えませんが、気にせず、マグロに質問してみましょう。「いいから、その身を楽しんでみなよ。君を一切れ口にすれば、ものすごく素晴らしい味がするんだ。君には山ほどのマグロがあるじゃないか! もし僕が君だったら、天国にいるみたいなもんだよ」
もちろん、私たちは皆、これが現実的な会話ではないと分かっています。マグロが言葉をしゃべらないということだけではありません。人類はマグロの味を堪能できても、マグロという魚は自身の身を楽しめないと、私たちは本能的に感じています。
なぜ、人はマグロの味を楽めるのでしょうか? なぜなら私たちはそれに対する欲求を持っているからです。マグロという魚が自分の身を楽しめないのは、その欲求がないからです。特定の物から喜びを受け取る特定の欲求は、クリ(Kli:器)と言われてます。そして、クリ(器)の内側で喜びを受け取ることをオアー(光)と言います。クリ(器)とオアー(光)は、間違いなく、カバラの知恵の最重要概念です。皆さんがクリ(器)、つまりクリエーター(創造主)のための器を創れたとき、「彼」(クリエーター)の光を受け取ることになります。
欲求への対処
さて、もう私たちは欲求が発達を生み出すことを知りましたので、ここでは歴史を通して欲求をどのように扱ってきたかを見ていきましょう。そのほとんどにおいて、2つの方法が取られていました。
1.すべてを習慣化して欲求を「手なずけ」たり、日課の中に欲求を組み込んだりする。
2.欲求を消していくか、押し殺す。
大概の宗教は一つ目の方法を取り入れており、一つひとつの行動を褒美に「タグ付け」しています。良いとされていることにやる気を出させるよう、何かしら「正しい」ことをしたときはいつも、指導者や周りの人たちが好意的な反応で褒美を与えます。成長するにつれ、徐々にその褒美はもらえなくなりますが、私たちの心の中で行動が褒美に「タグ付け」されているのです。
一度何かに慣れてしまうと、それが私たちの第2の性質になります。そして、その性質にしたがって動くとき、私たちは自分に心地よさを感じます。
欲求の取り扱い方法の2番目(欲求を消す)は、もともと東洋の教えで用いられていたものです。この手法は単純なルールに従っています。それは、欲して持たざるより、欲せずをよしとする、ということ。もしくは、老子(紀元前604〜531年)の言葉によれば、「質素を表せ。素朴を受け入れよ。利己を減らせ。ほとんど何も欲するな」(『老子道徳経』)ということです。
私たちは長い間、この2つの方法だけでうまく切り抜けてきたと思われます。望んでいたものは得られませんでしたが(なぜなら、望むものを得たときには、もはやそれを望んでいないというルールがあるため)、その追いかけっこそのものに満足していました。新たな欲求がやって来たときはいつも、きっとこれが自分の願望を満たしてくれるだろうと信じていました。夢を見続ける限り、私たちは希望に満ちています。そして、たとえ夢がかなわなくても、希望があるところに生きる力があります。
しかし、欲求は大きく成長してしまいました。かなえられない夢、あるべき満たしを欠いた空っぽのクリ(器)。それを満足させることが、ますます難しくなっています。結果として、欲求を飼いならすこと、消すこと、という2つの方法は、大きな課題に直面しています。欲求を消すことができないのなら、私たちには欲求を満足させる方法を探す以外に道はありません。この状態では、古い方法を捨てるか、新しい方法を探し古い方法と合体させるかのどちらかです。
町の中での新たな欲求
受け取りたいという意志は、4段階になっていると述べました。a)食べ物や生殖、家族といった物質的な欲求。b)富。c)権力と尊敬・敬意。これは時としてはっきりと2つのグループに分かれます。そして、d)知識への欲求。
この4つの段階は2つのグループの分かれています。1)動物的欲求(第1段階):すべての生き物に共通のもの。2)人類の欲求(第2〜4段階):人類に独特のもの。そして、後者の欲求が、私たちを今日いるところまで連れてきました。
しかし今日、新たな欲求が生まれています。受け取りたいという欲求の進化の5段階目です。前章で述べたように、『ゾハールの書』には「20世紀末に新たな欲求が出現する」と書かれています。
この新しい欲求は、ほかの欲求とは比べようもないほど、これに先だつ欲求の全段階の頂点に位置するものです。最強の欲求であるだけでなく、ほかのすべての欲求とは異なる独自の特徴を含んでいます。
カバリストが心について言及するとき、それは身体的な心臓についてではなく、1から4までの欲求段階について言っています。しかし、欲求の第5段階目は本質的に異なります。第5段階では身体的・物質的満足ではなく、スピリチュアル的な満足だけを欲します。この欲求は人が経ることを運命づけらた、スピリチュアル的成長の根源でもあります。そのため、カバリストはこの欲求のことを「心の点」と呼んでいるのです。
新たな欲求のための新たなメソッド
「心の点」が現れると、この世の喜び(セックスやお金、権力、知識)への欲求がスピリチュアルな喜びへの欲求にシフトし始めます。これは私たちが探し求めていた新たな種類の喜びのため、これを満たすための新たなメソッドも必要です。新たな欲求を満たすためのメソッドは「カバラの知恵」(受け取り方の知恵)と言われています。
この新たなメソッドを理解するために、スピリチュアリティへの欲求の満たしを目的とするカバラの知恵と、これまでにスピリチュアリティ以外のすべての欲求を満たしてきたメソッドとの違いを見ていきましょう。通常「普通」の欲求であれば、必要なものをとても簡単にはっきりさせられます。食べたければ、食べ物を探します。尊敬を得たければ、人々から尊敬してもらえると思う態度を取ればいいのです。
しかし、スピリチュアリティが何かまったく知らないのに、どうすればそこに到達する方法が分かるのでしょうか。始めのうちは、クリエーター(創造主)を発見するという自分の真の望みを認識していないため、「彼」(クリエーター)を探すのに新しいメソッドが必要なことにも気付いていません。この欲求はそれまでに感じたどんなものとも完全に異なるため、自分でもよく分かりません。スピリチュアリティを発見して満たしていくメソッドが、「隠された知恵」と名付けられている理由はここにあります。
望むものすべてが食べ物や社会的地位、せいぜい知識である限り、私たちは隠された知恵を必要としませんでした。この知恵はそういった欲求に対してはまったく役立ずのため、隠されたままにされていたのです。しかし、だからといって、その知恵が放置されたわけではありません。それどころか、5千年もの間、カバリストは人々がそれを必要とするときのために、その知恵に磨きをかけ、洗練させてきました。カバラを理解しやすく、手に届きやすくするために、カバリストはより簡単に、より簡単にと本を書いてきたのです。
カバリストには、未来においてこの知恵が世界中で必要になると、分かっていました。そしてそれは、欲求の5段階目が出現したときだと記していました。そして今、その段階が現れ、それに気付いた人々はカバラの知恵の必要性を感じています。
カバラの用語で言うなら、喜びを受け取るには、そのためのクリ(器)を持たなければなりません。それは、特定の喜びを受け取るために、明確に定義された欲求のことです。クリ(器)が出現すると、脳はオアー(光)でクリ(器)を満たす方法を探すよう強いられます。今や多くの人が「心の点」を持っていることから、カバラはスピリチュアリティへの欲求を満足させる方法として現れたのです。
ティクン〜受け取りたいという意志の是正
受け取りたいという意志が「キャッチ=22」(訳注:どうもがいても解決策が見つからないジレンマ)であることは、すでに述べました。人がずっと探し求めていたものを最終的に手に入れたとき、ほぼその直後に欲するのをやめてしまいます。もちろん、欲しいと思わなければ楽しむこともできません。
スピリチュアリティへの欲求は、この「キャッチ=22」を避けるために、あらかじめ組み込まれた独特のメカニズムを搭載しています。このメカニズムはティクン(是正)と呼ばれます。5段階目の欲求を効果的、かつ楽しく使えるようになるには、その前にこのティクン(是正)で欲求を「コーティング」しなければなりません。
ティクンを理解することで、カバラに関してよくある、多くの誤解が解かれます。受け取りたいという意志は、人類の歴史の中であらゆる進化や変化を促す原動力になってきました。しかし、それは常に、自己満足で喜びを受け取るためでした。喜びを受け取りたいと望むのは、少しも悪いことではありません。しかし一方で、自己満足のために楽しみたいという意図が、自分たちをクリエーター(創造主)である自然と反対側に位置させます。そうして、自分のために受け取りたいという願望によって、自分で自分をクリエーターから切り離しているのです。これが私たちの堕落と、あらゆる不幸や不満の理由です。
ティクン(是正)は私たちが受け取るのを止めたときではなく、受け取るための理由、つまり意図を変化させたときに起ります。自分のために受け取るなら、それは「利己主義」と言われます。クリエーターと一体となるために受け取るなら、「利他主義」と言われます。それは自然と一つになることを意味します。
例えば、皆さんは何ヶ月も、毎日同じ食べ物を楽しむことができますか? おそらくできないと思います。しかし、赤ん坊はまさしくこれを求められています。これに関して赤ん坊に選択権はありません。実際には、赤ん坊がこれに同意する理由が一つだけあります。赤ん坊はほかの食べ物を何も知らない、ということです。しかし、空腹を満たすこと以外で、赤ん坊が食べることで得られる喜びは少ししかないことは確かです。
では次に、赤ん坊の母親のことを考えてみます。我が子に食事を与えながら、母親の顔が輝いていく様子を想像してみましょう。我が子が元気に食べるのを見るだけで、母親は天国にいます。おそらく赤ん坊は(ほどほどに)満足し、母親は大喜びしています。
ここでは、次のことが起こっています。母親と子どもは両方とも、子の食への欲求を楽しんでいます。しかし、子が自分の腹具合に集中している間、母親の喜びは無限に大きくなっていきます。なぜなら、母親の喜びは子に与えることだからです。彼女の意識は自分にではなく、子にあります。
これは自然も同じです。自然が私たちに何を望んでいるかを知って、それを実現するなら、私たちは与える喜びを感じるでしょう。しかも、母親が我が子に対して当然ように体感する本能的なレベルではなく、自然と結合したスピリチュアルなレベルで感知します。
カバラの原語であるヘブライ語では、意図のことを「カバナ」(Kavana)と言います。したがって、私たちが必要とするティクンは、自分たちの欲求の上に正しいカバナを置くことです。ティクンを行ない、カバナを持つと、褒美がもらえます。それは、全願望の中で最後にして最大のものをかなえるということ。つまり、スピリチュアリティ=クリエーターの欲求を満たすということです。そうすると、人は現実を支配しているシステムを知り、それを創る側に参加します。いよいよ鍵を手にして、運転席に座るのです。そのような人はもはや、今の私たちのような生と死を経験することはありません。クリエーターと結合した、この上ない喜びや全体性といった果てしない永遠の中を、喜びにあふれて楽々と流れているのです。
第2章のまとめ
欲求には5つの段階があり、3つのグループに分けられる。1つ目のグループは動物的な欲求(食物、生殖、住居)。2つ目は、人間的な欲求(お金、名誉、知識)。そして3つめはスピリチュアル的な欲求(心の点)である。
2つ目のグループまでであれば、欲求を型にはめて「手なずける」こと、そして欲求を抑えることで手を打っていた。しかし、「心の点」が現れたとき、この2つの方法はもはや役目を果たさなくなり、私たちは別の方法を探さなければならなくなった。何千年もの間、隠されてきたカバラの知恵が再浮上したのは、このときである。カバラの知恵は、ずっと必要とされるときを待っていたのだ。
カバラの知恵はティクン(是正)のための手段である。カバラの知恵を用いると、自分たちのカバナ(意図)を変えることが可能になる。それは、利己主義と定義される自己満足の願望を、利他主義と定義される全自然、つまりクリエーター(創造主)を満足させたいという願望へと変えることである。
実際、私たちが今日抱えている世界危機というのは、欲求の危機である。私たちがカバラの知恵を、すべての願望の中で最後にして最高のものである、スピリチャアリティへの欲求を満たすために用いるなら、すべての問題は自動的に解決される。なぜなら、その問題の根は多くの人が感じているスピリチュアル的な不満足にあるからだ。
第3章 創造の起源
創造の起源
本書はここまで、カバラの研究が今日、本当に必要であることを確認してきました。ここからは、この知恵の基礎を少し学んでいきます。この本で伝えられる範囲では、上層世界についての徹底的な研究は難しいにしても、もし皆さんがカバラの研究をもっと掘り下げていきたいと望むのなら、この章の終わりには研究を続けるに十分で確かな基礎を得られます。
その前に、図について一言。カバラの書物には、例外なく、多くの図が描かれています。図はスピリチュアルな状態やその構造を説明するのに役立ちます。最初から、カバリストはスピリチュアルな道に沿って経験することを述べる手段として、図を用いてきました。そうはいっても、図は形あるものを描いているわけではありません。これを覚えておくことは、とても重要です。それは人とクリエーター(創造主)、つまり自然とのものすごく直接的なかかわりについての図であり、スピリチュアルな状態を説明するために用いるイメージに過ぎないのです。
スピリチュアル世界
全世界は、すべて喜びを受け取りたいという欲求から創られています。欲求は4つのフェーズ(段階)で進化し、その最後のフェーズを「被造物」(図1)と言います。これは欲求の進化のひな形であり、存在するすべての基礎をなすものです。
図1は被造物の創造過程を描いています。これを物語として見ることで、図は場所や物ではなく、感情やスピリチュアルな状態を表していることを覚えやすくなります。
どんなものも創られる前には、熟考と計画が必要とされます。この図の場合は、創造と創造を引き起こした思想について述べています。それは「創造の思想」と言われるものです。
第1章では、過去において、自然に対する恐れによって、自然が当時から今にわたるすべての人のために、何を計画したかを探すように促したと述べました。当時の人々は自然を観察し、自然の計画とは私たちが喜びを受け取ることだと発見しました。それは、この世で感じられるどんな欲求とも違います。自然(クリエーターもしくは創造主という言葉に言い換え可)は私たちに、とても特別な種類の喜びを受け取ってほしいと思っています。自然そのもの、つまりクリーターとそっくり同じになるという喜びです。
確かに図1を見ると、創造の思想とは実際、被造物に喜び(「光」と呼ばれるもの)を与えたいという欲求だと分かります。これはまた、創造の根源であり、私たちのすべてが始まったところです。
カバリストはクリ(器、受取り)という用語を、喜びを受け取りたいという欲求を言い表すために用います。なぜカバリストが自分たちの知恵を「カバラの知恵(受取りの知恵)」というのか、もうお分かりでしょう。
また、カバリストが喜びを「光」と呼ぶのにも、それ相応の理由があります。クリ(器=被造物・人)がクリエーターを感じるとき、それは偉大な知恵の体験となり、まるで夜が明けるように人は何かを知り始め、光に気付くようになります。すると、知恵が明らかにしたものは何であれ、たとえ目に見えなくても、常にそこにあると分かるようになります。まるで、夜の闇が昼の光に変っていくように、見えなかったものが見えるようになるのです。そして、この光は知識も共にもたらすため、カバリストはそれを「知恵の光」、それを受け取るメソッドを「カバラの知恵」と呼んでいます。
4つの基本フェーズ
話を本筋に戻しましょう。喜びを与えるという思考を実践するため、クリエーター(創造主)は、クリエーターと同じになる、という喜びを受け取ることを欲するように被造物をデザインしました。もしあなたが親であれば、それがどんな感覚か分かるはずです。誇らしげな父親に向かい、「あなたの息子さんはあなたに瓜二つですね」と言うよりほかに、どんな温かい言葉があるのでしょうか?
先に述べたように、創造の思想、つまり被造物に喜びを与えることは、創造の根本です。そのため、創造の思想は「根のフェーズ」もしくは「フェーズ0」と言われており、喜びを受け取りたいという欲求は、「フェーズ1」と名付けられています。
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フェーズ0で下向きの矢印が示されていることに注意すること。下向きの矢印があるときは、常に光がクリエーター(創造主)から被造物に向かってくることを意味する。しかし、その逆は真実にあらず。上向きの矢印があるときは、常に被造物がクリエーターに光を与えるという意味ではなく、「彼」(クリエーター)にお返しをしたいという意味である。そして、反対方向を指す2つの矢印があるとどうなるのか? 読み続ければ、何を意味するかはすぐに分かるだろう。
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カバリストはまた、クリエーターを「授与する意志」と呼びます。そして被造物を、「喜びや楽しみを受け取る意志」もしくは単に「受け取る意志」としています。クリエーターを知覚することについては後述しますが、ここで重要なのは、カバリストが常に自らが知覚したことを伝えている、ということです。カバリストは、クリエーターに与えたいという欲求がある、とは言っていません。自分たちがクリエーターに見たのは、「彼」(クリエーター)に与えたいという欲求があることだ、と言っているのです。だからカバリストは、「彼」のことを「授与する意志」と呼んでいます。また、カバリストは、自分の中に「彼」が与えたい喜びを受け取る、という欲求も見つけているため、自分たちを「受け取る意志」と呼んでいます。
つまり、受け取りの意志というのは創造の最も重要なものであり、あらゆる被造物の根源なのです。被造物、つまり受け取りの意志が、喜びは与える者から来ると感じるとき、真の喜びは与えることにあり、受け取ることにはない、と感じ取ります。その結果、受け取りの意志は与えたいと思い始めます(注:図の2の器:クリから出ている上向きの矢印)。これはまったく新しい段階、第2のフェーズです。
これが新しいフェーズになる様子を検証していきましょう。クリ(器)を見れば、それ自体はフェーズを通して変化がないことが分かります。つまり、受け取る意志はそれまで同様、機能しているということ。受け取る意志は創造の思想においてデザインされたため、永遠であり、決して変えられないのです。
しかし、フェーズ2になると、受け取りの意志は、受け取りではなく与えることで喜びを受け取りたいと欲します。これは根本的な変化です。大きな違いは、フェーズ2は誰かしら与える相手が必要だということ。言い換えれば、フェーズ2では、自分以外の誰かもしくは何かに積極的にかかわらなければなりません。
根底に受け取る意志があるにもかかわらず、私たちに与えることを強いるフェーズ2は、人生を可能にするものです。それがなければ、親は子の世話をしませんし、社会生活も不可能でしょう。例えば、私がレストランを所有しているとして、お金を稼ぐという願望があるとします。しかし結果として、そのとき限りの見知らぬ人に食事を与えています。銀行家やタクシードライバー(ニューヨークでさえ)もしかり、そのほかすべてにおいて当てはまります。
ここで分かることがあります。それは、フェーズ1のように、あらゆる被造物には動機の根底に受け取りの意志があるにしても、なぜ自然の法則は受け取りの法則ではなく、利他であり与える法則なのか、いうこと。創造の初めから、受け取りの意志と与える意志の両方があり、起こることすべては最初の2つのフェーズの「関係性」から来ています。
先に示したように、フェーズ2の与えたいという欲求は、受け取る人が必要なため、人とのやりとりを余儀なくさせます。そのためフェーズ2では、クリエーターに何を与えられるかを検討し始めます。結局、クリエーター以外の誰のために与えられるのか、ということです。
しかし、実際にフェーズ2で与えようとすると、クリエーターが望んでいることは、すべてが与えることだと気付きます。クリエーターには受け取る意志がまったくないのに、被造物は何を「彼」に与えられるのでしょう?
さらにフェーズ2では、フェーズ1の真の欲求は、根本的に受け取ることだと気付きます。元来、その本質は喜びや楽しみを受け取りたいという欲求であり、その内側に本物の授与の欲求などこれっぽっちもないことに気付くのです。ここに問題の核心があります。クリエーターは与えることしか望んでいないため、被造物の受け取りの意志は、そのままクリエーターに与えることができるものだったのです。
混乱するかもしれませんが、母親が我が子に乳を与える喜びを考えてみれば、赤ん坊は腹を満たしたいと欲しているだけでも、実際には母親に喜びを与えている、ということが分かります。
そのため、フェーズ3になると、受け取りの意志は受け取ることを選択し、そうすることで根のフェーズ、つまりクリエーターへお返しします。ここで私たちは、喜びや楽しみを享受する側と与える側、その両方のいる完全な輪(循環)を得ることになります。フェーズ0であるクリエーターが被造物に与えるフェーズ1。そして、フェーズ1、2、3と進んできた被造物は、クリエーターから受け取ることで、「彼」にお返しをするのです。
図1のフェーズ3、下向きの矢印はフェーズ1と同じく受け取りの行為を示し、上向きの矢印はフェーズ2と同じく、その意図は与えることだと示しています。繰り返しになりますが、その行為は両方とも、フェーズ1、2と同じ受け取りの意志を用いています。これは少しも変わりません。
すでに見てきたように、私たちの利己的な意図はこの世で見るすべての問題の原因です。ここでもまた、創造の根源において、意図は行為そのものよりもはるかに重要です。実際、イェフダ・アシュラグは、フェーズ3は受け取る側が10パーセント、与える側が90パーセントと比喩しています。
ここで私たちは、クリエーターが被造物を「彼」自身、つまり与える者と瓜二つにするということを成し遂げた、完璧な輪(循環)を手にいれます。その上、被造物は与えることを楽しみ、そうすることでクリエーターに喜びをお返ししています。しかし、これで創造の思想は完成するのでしょうか?
いいえ、まだ完全ではありません。受け取りの行為(フェーズ1)とクリエーターの唯一の望みは与えることだという理解(フェーズ2)によって、被造物はそのままの状態、つまりフェーズ3にいたいと思うようになります。しかし、その状態は被造物が与える者になること、つまり創造の思想の完成を意味しません。
クリエーターの状態にいるとは、被造物が与える者になるだけでなく、与える者と同じ思想ーー創造の思想ーーを持つことを意味します。その状態で、被造物は理解していくのです。なぜクリエーターと被造物の輪(循環)が始められ、クリエーターは被造物を形創ったのか、ということを。
創造の思想を理解したいという欲求が、まったく新しいフェーズであることは明らかです。唯一例えられるとすれば、両親と同じくらい強く賢くなりたいと望んでいる子どもでしょう。私たちは本能的に、子が実際に親になったとき、そうなれることを知っています。だから親はしばしば、子にこういうのです。「自分が親になれば分かるよ」と。
カバラでは、創造の思想を理解すること、つまり最も深い理解の段階を、「到達」と呼んでいます。最終フェーズであるフェーズ4で、受け取りの意志はこれを渇望するのです。
創造の思想を獲得したいという欲求は、創造の最も強い力です。進化の全過程において、その背後にこれがあります。それを知っていようがいまいが、私たちが探し求めている究極の知識は、クリエーターがすることを、なぜクリエーターはするのか、ということの理解です。これは、何千年も前に、創造の秘密を発見しようと、カバリストを駆り立てたものと同じ原動力です。それを理解するまで、私たちの心にやすらぎはないのです。
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カバラで最もよく使われる用語の一つにセフィロト(Sefirot)がある。この言葉はヘブライ語のサフィール(Sapir:サファイア)に由来し、各セフィラ(Sefira、セフィロトの単数)は独自の光を持つ。また、4つのフェーズはセフィラにちなんで、それぞれに一つずつ、もしくは複数の名が付けられている。フェーズ0は、ケテル(Keter)、フェーズ1はホフマ(Hochma)、フェーズ2はビナ(Bina)、フェーズ3はゼイー・アンピン(Zeir Anpin)、フェーズ4はマルフット(Malchut)と呼ばれる。
実際には、セフィロトは10個ある。ゼイー・アンピンが、ヘセッド(Hesed)、ゲヴラ(Gevura)、ティフェレト(Tifferet)、ネッツァフ(Netzah)、ホッド(Hod)、イェソッド(Yesod)という 6つのセフィロトで構成されているからだ。
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創造の思想の探求
クリエーター(創造主)と同じになるという喜び。「彼」(クリエーター)は、それを私たちに受け取ってほしいと思っていますが、だからといって初めからその欲求を与えることはしませんでした。「彼」が私たちーー被造物でありアダム・ハリションという統一された魂ーーへ与えたものはすべて、究極の喜びへの切望でした。しかし、一連のフェーズから見てとれるように、クリエーターは「彼」のようになりたいという欲求を、被造物に注ぎ込みませんでした。それは、各フェーズを経ることで被造物の内側に進化していくものなのです。
フェーズ3では、被造物はすでにすべてを受け取っていて、クリエーターへお返しをしようとしていました。クリエーターが行っている、与えるということ。まさしくそれを被造物がしているということは、この一連のフェーズが、その瞬間その場で終わることになります。その意味では、もう被造物はクリエーターと同一になっています。
しかし被造物は、与えるという結果に甘んじませんでした。被造物は理解したかったのです。与えることを心地よくさせているのは何か? 現実を創り出すにはなぜ与える力が必要か? 与えるものが与えることで得ている知恵は何か? 要するに、創造の思想を理解したかったということ。これは新たな渇望であり、クリエーターが被造物に「注ぎ込む」ことはなかったものでした。
創造の思想を探求する時点で、被造物はクリエーターから遠く離れた、異質のものになっています。これは、以下のように考えられます。もし誰かほかの人みたいになりたいと思うのなら、それは必然的に、自分以外の誰かの存在を知っているということ。また自分が欲しいもの、なりたいと思ってるものをその人が持っていることも、当然知っているということ。
言い換えるなら、自分以外の人が存在することだけでなく、その人が自分とは違うと気付いているということです。しかも単に違うのではなく、その人のほうがより優れていると知っています。そうでなければ、なぜ「彼」のようになりたいなどと思うのでしょうか。
そのため、マルフット、つまりフェーズ4は、最初の3つのフェーズとはまったく異なります。なぜならマルフットはある特定の喜び(太い矢印)、つまりクリエーターと同じであるという喜びを受け取りたいと望んでいるからです。創造の思想、つまり元々クリエーターの念頭にあったサイクルを、マルフットの欲求が「彼」の視点から完成させるのです(図2)。(図2)。
残念ながら、私たちはクリエーターの視点から物事を見ていません。ここ下層からの眺めは、スピリチュアルが壊れた光景であり、理想的とは言えません。光と正反対であるクリ(Kli:人)が光のようになるには、受け取る意志を与える意図をもって使わなければなりません。そうすることで、自分自身の喜びから、与えることで受け取るクリエーターの喜びへ焦点を移していきます。そうして、クリ(Kli:人)もまた与える者になるのです。
実際、クリエーターへ与えるために受け取ることは、すでにフェーズ3で生じています。クリエーターの行為という点では、フェーズ3がすでにクリエーターと同じになるという仕事を完了しています。クリエーターは与えるために与え、フェーズ3は与えるために受け取っています。この点でそれらは同じです。
しかし最終的な喜びは、クリエーターがしていることを知ったり、「彼」の行為を複製したりすることではありません。それは、なぜ「彼」は「彼」がすることをするのか、ということを知り、「彼」と同じ思想を獲得することにあります。そしてこの創造の最高段階であるクリエーターの思想は、被造物には与えらていません。これは被造物(フェーズ4)が到達しなければならないものです。
ここに美しいつながりがあります。ある面では、まるでクリエーターと私たちがコートの両サイドにいるかのようです。彼が与え、私たちが受け取るからです。しかし実際、「彼」の最高の喜びは私たちが「彼」のようになることであり、私たちの最高の喜びも「彼」のようになることです。これは、子どもが皆、両親のようになりたいと思うのと同じです。そして当然ながら両親は皆、自分たちがしなかったことでさえ、子に成し遂げてほしいと思うものです。
ここで判明するのは、私たちとクリエーターは、実際には同じゴールを目指している、ということ。この概念を理解できれば、私たちの人生はまったく違うものになるでしょう。今日私たちの多くが感じている混乱や方向性の喪失ではなく、私たちもクリエーターも、創造の幕開けから定められているゴールへ向かって、足並みそろえて進んでいくことができます。
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カバリストは授与する意図を言い表すために多くの用語を使う。クリエーター、光、与える者、創造の思想、フェーズ0、根、根のフェーズ、ケテル、ビナ、ほか多数。同じく、受け取る意志を言い表すためにも多くの用語を使う。その中には、被造物、クリ、受け取る者、フェーズ1、ホフマ、マルフットなどがある。これらの用語は、授与と受け取りという、捕らえどころのない2つの特性について言及している。これを覚えていれば、名前に混乱することはない。
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クリエーターのような与えるものになるために、器(クリ)は2つのことを行ないます。1つ目は受け取ることを止めることです。ツィムツム(Tzimtzum:制約)と呼ばれる行為で、完全に光をストップさせて、クリ(Kli)の中に光が入ることを少しも許しません。おいしいけれど不健康なものを少しだけ食べて残すより、食べることを避けるほうが容易なのと同じです。ですから、ツィムツム(Tzimtzum:制約)を創ることは、クリエーターのようになるための最も簡単な、初めの一歩なのです。
マルフット(Malchut)が次に行うことは、光(喜び)を調べて、それを受け取るかどうか、もし受け取るならどれくらいかを決めるメカニズムを創ることです。このメカニズムはマサッフ(スクリーン)と呼ばれています。マサッフがどれぐらい受け取るかを決める条件のことを、「授与の意図」と呼んでいます。簡単に言えば、クリ(Kli)が取り込むのは、クリエーターを喜ばすという意図をもって受け取れることだけ、ということ。クリ(Kli)の中に受け取った光は「内なる光」と呼ばれ、外側に残る光は「取り囲む光(包む光)」と呼ばれています。
是正の過程の最後に、クリ(Kli)はクリエーターの光をすべて受け取り、「彼」と一体化します。これが創造の目的です。この状態へ到達すると、私たちは個人としても、統合した一つの社会としても、それを感じることができます。なぜなら事実、完全なるクリ(器)は一人の欲求ではなく、全人類の欲求で創られているからです。そしてこの最後の是正を完了するとき、私たちはクリエーターと同一になり、フェーズ4がまっとうされます。創造が、「彼」の視点としての私たちの視点から、完成されるのです。
道筋
クリエーター(創造主)とあらゆる点で同じになるという務めを果たすにあたり、被造物が初めに獲得すべきものは、進化してクリエーターのようになるための正しい環境です。この環境は「諸世界」と呼ばれています。
フェーズ4で、被造物は上と下の2つの部分に分けられました。上層部を構成するのは諸世界です。下層部はこれら諸世界の内側で、そのすべてをなす被造物です。大まかに言えば、諸世界はマサッフが光にフェーズ4へ入ることを許可した欲求によってできています。そして被造物は、マサッフが光に入ることを許可しなかった欲求でできています。
創造がたった一つのものによってなされたことを、私たちはすでに知っています。喜びや楽しみを受け取りたいという意志によってです。そのため、上層・下層というのは、場所ではなく、かかわる欲求が高いか低いか、ということになります。つまり、高い欲求は低いと考えられる欲求よりも、良いとされるということ。フェーズ4では、クリエーターへ授与するために用いられる欲求なら何であれ上層に属し、そうでなけれはすべて下層に属します。
欲求には、鉱物、植物、動物、スピーキング、スピリチュアルという5段階があり、各段階ごとに分析・解明がされています。実際に機能している部分が諸世界を創り、(まだ)機能していない部分が被造物を創ります。
本章の前半で、フェーズの4パターンは存在するすべてものの基礎であると述べました。そのため、諸世界はフェーズの創造で用いられたのと同じ雛形で進化しています。図4の左側は、フェーズ4の内部の詳細で、上層と下層に分けられていること、上層部は諸世界を含み、下層部は被造物を含むことを示しています。
それでは、フェーズ4についてもう少し深く見ていきましょう。フェーズ4がどうやってマサッフ(Masach)と連動していくのかについでです。結局のところ、フェーズ4とは私たちのことのため、その働きを理解することで、自分たちのことについても何かしら学べるかもしれません。
フェーズ4、つまりマルフットはどこからともなく、不意に現れたのではありません。フェーズ4はフェーズ3から、フェーズ3はフェーズ2から進化しています。同じく、エイブラハム・リンカーンは大統領として突如、登場したのではありません。赤ちゃんのエイブ坊やが子ども、若者、大人へと成長して、ついには大統領となったのです。しかし、そこに至るまでの段階は消えてはいません。それらの段階がなかったら、リンカーン大統領は、リンカーン大統領になっていなかったでしょう。それが私たちに見えないのは、最も発達した段階は常に下の段階の前にそびえ立ち、影を落としているからです。しかし最終・最高段階では、その中に前の段階を感じるだけではなく、ほかの段階と連動します。
だから、私たちは誰しも、子どものように感じるときがあるのです。特に自分が成熟していないところに触れたときです。それは単に、そこが成長した大人の層で覆われていないからで、そういったやわらかな個所では、私たちはまるで子どものように無防備な感覚になります。
この重層的な構造が、ゆくゆく私たちを親にさせます。子育てをしてく中で、私たちは現在の層と過去の層を結び付けていきます。私たちは子どもが体験することを理解していますが、それは自分も似たようなところを通って来ているからです。長年かけて積み上げてきた知識と経験で、子どもの立場を自分のことのように感じるのです。
なぜそうなっているかと言うと、(一般的に用いられる名前で呼ぶなら)マルフットが、この手法で組み立てられているからです。マルフットより前の全フェーズがマルフットの中に存在し、その構造を維持するのを助けています。
可能な限りクリエーターに類似するため、マルフットはそれ自体の内にある欲求の各段階を分析し、段階ごとに欲求を機能するものと機能しないものに分けていきます。しかし、機能する欲求は、クリエーターへ与えるために受け取る、というためだけに使われるのではありません。それは、マルフットを「彼」(クリエーター)そっくりにするという、「彼」の務めが完了するよう「手を貸し」ます。
数ページ前で、クリエーターと同じになるという務めを果たすため、被造物は進化してクリエーターのようになるための正しい環境を創らなければならない、と述べました。それはまさに、諸世界、つまり機能する欲求がすることです。そうやって、諸世界はクリエーターへ授与するための受け取り方を、機能しない欲求へ「示し」ます。そうすることで、機能しない欲求がそれ自体を是正するのを助けます。
私たちは諸世界と被造物の関係を、建設現場で働く仲間の中に、何をしたらいいか分からない作業員が一人いるグループとして思い描けます。諸世界は被造物に、どのようにすればいいか、実際に一つずつやってみるせことで教えます。穴の開け方やハンマーの使い方、水準測定などです。スピリチュアリティの場合では、諸世界はクリエーターが何を与えているのか、どうやったら被造物は正しい方法で機能できるのか、ということを被造物に示します。被造物は少しずつ、自分たちの欲求をこの方法で使い始めます。それが、私たちの世界の欲求が、最も穏やかなものから最も激しいものへと、徐々に表面化する理由です。
欲求は次のように分けられます。アダム・カドモンの世界は鉱物・無生物レベルで機能する部分です。そして、鉱物・無生物レベルの下層部、つまり被造物は、機能しない部分です。実は、鉱物・無生物レベルでは、是正するものは何もありません。不動なために、欲求を使うこともないのです。また、この鉱物・無生物レベル(上層・下層とも)は後に続くすべての基本形となっています。
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私たちが話している5つの世界のどの部分が自分たちの世界であるのか。ここまでの学びでは、まだそれを知れていない。実際、そのどれもが私たちの世界ではない。スピリチュアリティには、「場所」というものはなく、状態のみがあるということを忘れないように。世界がより高くなるほど、より利他的な状態を表す。私たちの世界がどこでも触れられていないのは、スピリチュアル世界が利他的だからだ。そして私たちの世界は、私たちがそうであるように、利己的である。利己主義は利他主義とは真逆のため、私たちの世界はスピリチュアル世界のシステムから引き離されている。これがカバリストが描いた構造に、私たちの世界が言及されない理由である。
さらに、もし私たちがクリエーターのようになって諸世界を創らないのなら、実際それは存在しない。諸世界については過去形で話されるが、それはカバリストが、私たちの世界からスピリチュアル世界へと上り、そこで見つけたことを伝えているからだ。もし、私たちもスピリチュアル世界を発見したいと望むのなら、利他的になることで自分たちの内側にその世界を再び創らなければならない。
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続いてアツィルトの世界は、植物レベルで機能する部分であり、その下層部である被造物は機能しない部分です。ベリアーの世界は動物レベルの機能する部分であり、その下層部である被造物は機能しない部分です。イェツィラーの世界はスピーキングレベルの機能する部分であり、その下層部である被造物は機能しない部分です。最後にアシヤーの世界はスピリチュアルレベル、つまり究極の欲求レベルが機能する部分です。そして、その下層部分である被造物は機能しない部分になります。
これでもう、人類を是正したならすべてが同時に是正される、という理由が分かると思います。それでは続いて、私たちについて、また私たちに起っていることについて述べていきましょう。
アダム・ハリション〜共通の魂
実のところ、共通の魂(被造物)であるアダム・ハリションは、起こり得るすべての出来事の根源です。欲求の構造でもあり、かつてスピリチュアル世界の体系が完成したときに生じました。すでに述べたように、アダム・カドモン、アツィルット、ベリアー、イェツィラー、アシヤーという5つの諸世界は、フェーズ4の上層部分の発達を完了しています。しかし、下層部分はまだ発達が必要な状態です。
言い換えれば、魂は行うことのかなわない欲求でできています。最初に創られたとき、クリーエーターへ与えるための光を受け取れなかった欲求です。しかし今、その欲求は一つずつ表面化して、諸世界、つまり行うことの可能な欲求の助けを借りることで、かなうように是正されなければなりません。
そのため、フェーズ4の下層部分は、その上層部分と同じように、まさしく鉱物、植物、動物、スピーキングという欲求のレベルに分けられています。アダム・ハリションは諸世界、および4つの基本フェーズと同じ程度に進化します。しかし、アダムの欲求は利己的で自己中心的なため、初めに光を受けとることができませんでした。その結果、アダムの魂の一部である私たちは、自分たちが創造されたところにあった全体感と統一感を失っているのです。
私たちは、スピリチュアルなシステムがどのように働くのかを理解しなければなりません。クリエーター(創造主)の望みは与えることです。だからこそ「彼」(クリエーター)は私たちを創造し、存続しつづけています。すでに述べたように、受け取りの欲求は、もともとの性質からして自己中心的です。与えたい欲求が、必然的に受け手のいる外側へ向けて焦点を合わせると、受け取りの欲求はそれを吸収します。だから、受け取りの欲求は創造することができないのです。これはまた、クリエーターが与えたい欲求を持っていなければならない.理由でもあり、そうでなければ「彼」は創造することができませんでした。
いずれにしても、「彼」は与えたいため、「彼」が創造したものは必然的に受け取ることを欲します。そうでなければ、「彼」は与えることができません。だから「彼」はほかの何ものでもなく、受け取りたい欲求で私たちを創造しました。これを理解することはとても重要です。私たちの中には、受け取りたい欲求以外、何もありませんし、あってはならないのです。そのため、私たちが「彼」から受け取れば、このサイクルは完了し、「彼」も幸せ、私たちも幸せとなります。そうですよね?
いいえ、そうはなりません。もし、私たちの欲するものがすべて受け取りであれば、与える者との関係が持てません。なぜなら、その状態では受け取っているものがどこから来るのかと、外へ目を向けることはないからです。私たちは受け取りたい欲求を持たなければなりませんが、与える者も知らねばならない、ということです。そのためには、与えたいという欲求が必要です。これがフェーズ1とフェーズ2がある理由です。
この2つの欲求を両方とも持つ方法は、クリエーターが私たちに刻み込むことのなかった、新しい欲求を創ることではありません。単に、与える者に与えているときにある喜びを見ればいいだけです。その過程で、喜びを得る得ないは関係ありません。これは「授与する意図」と言われるもので、是正の本質であり、私たちを利己から利他の人間に変えるものです。そして、一度この性質を身につければ、私たちはクリエーターにつながることができます。これを、スピリチュアル世界は、私たちに教えることになっています。
クリエーターとのつながりを感じるまで、私たちはアダム・ハリションの魂の壊れたかけら、つまり是正されていない欲求とみなされます。授与への意図を持ち始めた瞬間に私たちは是正され、クリエーターと全人類の双方につながります。私たち皆が是正されるとき、私たちは根のフェーズへと再び上昇ます。そこは、アダム・カドモンの世界すら越えた創造の思想のあるところ、エイン・ソフ(終わりがない)と呼ばれる場所です。私たちの満たしが終わりのない永遠のものになるからです。
第3章のまとめ
創造の思想とは、創り手にそっくりな被造物を創り、喜びや楽しみを与えること。この思想(光)は、喜びや楽しみを受け取る意志を生み出す。
続いて、与えることがクリエーター(創造主)により似ていること、またその方が明らかに望ましいことから、受け取りの意志は与えたくなる。しかし、受け取ることはクリエーターに喜びを与える方法であるため、受け取りの意志は受け取ることを決心する。その後で、受け取りの意志は、すべてを知るより大きな喜びはないと、それ自体を生み出した思想を知ることを欲する。そしてついには、受け取りの意志(被造物)は与える意図をもって受け取り始める。与えることによってクリエーターと同じになれるからだ。それは、クリエーターの思考を研究する方法でもある。
授与するために受け取ることができる欲求は、創造の上層部とされる諸世界を創造する。授与のために使われることができない欲求は、アダム・ハリションの共通の魂を構成している。その欲求は、創造の下層部と考えられている。
諸世界と魂は構成が似ているが、欲望の強さが異なる。そのため、諸世界は魂を授かるためにどのように働けばいいかを魂に示すことができ、そうすることでアダム・ハリションの是正を助ける。
概して言えば、各欲求が是正される諸世界は特定されている。鉱物レベルはアダム・カドモン、植物レベルはアツィルット、動物レベルはベリアー、スピーキングレベルはイェツィラー と、各レベルごとに各諸世界で是正される。そしてスピリチュアリティへの欲求は、アシヤーの世界でしか是正ができない。これについては、次章で述べていく。
Last Updated (Thursday, 24 September 2020 14:52)